浅野 延秋(あさの のぶあき、1901年(明治34年)11月10日[1] - 1969年[2])は、日本のバスケットボール選手・指導者。早稲田大学で最初の学生バスケットボールチームを組織し、大日本バスケットボール協会の設立に尽力した[2]。
生涯
山梨県中巨摩郡落合村(現在の南アルプス市)出身[1]。郷里の小学校を卒業後、成城中学に入学[1]。成城中学はいち早くバスケットボールを受容していた中等学校の一つで、浅野はバスケットボール部の主将を務めた[1]。
1920年、早稲田大学高等学院(早高)に入学[3][4]。浅野は陸上競技部で同好者を集めてバスケットボールの練習を行い、アメリカ人英語教師スペンサーの指導を受けた[3][4]。その後、早高にはほかにいくつかのバスケットボールチームが現れた(中山克己は建築科で、冨田毅郎は機械科でチームを結成した[3])。1922年に第二回全日本籠球選手権大会(現在の天皇杯・皇后杯全日本バスケットボール選手権大会)が開催されると、浅野は同志を集めて早高として出場した[3][4]、これが早稲田のバスケットボールチームの初の対外試合となっている[3]。
1923年に早稲田大学の体育会からの承認を受けバスケットボール部が創部した[3]。設立メンバーには、李相佰、中山克己、冨田毅郎らがいた[5]。1924年(大正13年)には立教大学・東京商科大学(一橋大学の前身)とともに全日本学生籠球連合(のち関東大学籠球聯合、現在の関東大学バスケットボール連盟)を組織し、学生リーグ戦を開始した[3]。
1930年(昭和5年)の大日本バスケットボール協会の設立に尽力し[2]、常任理事[2][3]や競技委員[2]を務めた。なお、1933年(昭和8年)時点では東京電燈に勤務している[1]。
1936年ベルリンオリンピック(バスケットボールが正式種目となった最初の大会)では、バスケットボール日本代表の監督として参加した[3]。
1942年(昭和17年)、大日本バスケットボール協会が創立10周年を記念して功労者を表彰した際には、「特別功労者」7名[注釈 1]のうちの1人に挙げられた[6]。
1963年バスケットボール世界選手権(現在のFIBAバスケットボール・ワールドカップ)では日本選手団長を務める[3]。1965年には日本バスケットボール協会副会長を務める[3]。1969年没[3]。
2021年、日本バスケットボール殿堂は浅野を掲額者に選出した[2]。
脚注
注釈
出典