河村伊蔵
モイセイ河村伊蔵(もいせい かわむら いぞう、1865年11月15日 - 1940年2月5日)は正教会の神品(聖職者)で、明治・大正期に同教会の建築営繕を担った建築家。「モイセイ」は聖名[1]。息子の内井進、また孫のガウリイル内井昭蔵も建築家[2]。 略歴
主な仕事
建築の系譜聖亜使徒ニコライは、布教を成功させるためには絵師と建築師を必要と考えていた。河村には建築の心得はなかったが、聖ニコライに見込まれ、建設が進む東京大聖堂(ニコライ堂)の現場で信徒大工のワシリー岡本(岡本鶴蔵)やフォマ尾林から木造技術を学んだ。1901年、松室重光の設計で建設が行われていた京都ハリストス正教会聖堂に聖ニコライから建築監理にたびたび派遣された。日露戦争後、ロシア篤志家からの寄付もあり各地に聖堂建築が続々と建設計画が持ち上がり、フォマ尾林とワシリー岡本と協力しそれらの設計と施工監理を行った。設計は聖ニコライから渡された宗務局承認参考図譜に忠実に従ったもので、大阪ハリストス正教会、函館ハリストス正教会、豊橋ハリストス正教会、白河ハリストス正教会、釧路ハリストス正教会、札幌ハリストス正教会などの教会設計・建築監督に携わっている。 子の内井進も建築設計を本業とし、正教会聖堂の設計も手がけるが、宗務局承認参考図譜にとらわれない比率を用いている。金成ハリストス正教会・小田原ハリストス正教会の旧聖堂、およびニコライ堂のイコノスタスの設計に関わっていた。なお、金成ハリストス正教会の旧聖堂は設計を内井進が担当し、建築監督を河村伊蔵が担当している。孫のガウリイル内井昭蔵も建築家であり、世田谷美術館、浦添市美術館、皇居・吹上御苑の新御所などを手がけた。 エピソード大津事件の際、ロシア皇太子(のちのニコライ2世)を見舞うニコライ主教に同行していた[4]。 参考文献
脚注
外部リンク
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