河守町
河守町(こうもりちょう)は、かつて京都府加佐郡に属していた町。1951年(昭和26年)4月1日、河守上村・河東村・河西村・有路上村・有路下村を編入、同時に改称して大江町(おおえちょう)が発足した。 地理河守盆地を由良川が流れ、町のシンボルとして鬼伝説もある大江山がそびえる。 地形歴史中世・近世平安時代のこの地には郷として川守郷があった[1]。『和名類聚抄』(『和名抄』)では丹後国加佐郡十郷の一つとされる[1]。鎌倉時代以降には荘園として河守荘があった[1]。 天正8年(1580年)には河守町が細川藤孝・細川忠興領、慶長6年(1601年)には宮津藩領となった[1]。「慶長郷村帳」による石高は677石余、「延宝郷村帳」による石高は河守町が573石余、なお同町関村分104石余[1]。「天和村々高帳」による石高は918石余、「享保郷村帳」や「天保郷帳」による石高は929石余、「旧高旧領」による石高は788石余[1]。 幕末の「丹後国村々版籍取調帳」によると、河守町の人口は男622人、女604人だった[1]。丹波国と奥丹後を結ぶ宮津街道にある宿場町であるとともに、近郷からハゼノキやキリの実・繭などの原料を集めて蝋燭・桐油・生糸を製造する地でもあった[1]。物資の輸送には由良川も用いられた[1]。 近代・現代廃藩置県後の1871年(明治4年)には宮津県に所属、その後豊岡県に所属し、1876年(明治9年)に京都府の所属で落ち着いた[1]。 1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行により、河守町・金屋村・関村・上野村・波美村の区域をもって河守下村(こうもりしもむら)が発足した[1]。河守・金屋・関・上野・波美の5大字を編成[1]。 1890年(明治23年)12月10日、河守下村が町制施行・改称して河守町(こうもりちょう)が発足した[1]。特産品である蝋燭を取引する際に、古くから知られた河守町の名が有利だったため、町民らが名称復帰を請願したことによる[1]。河守・金屋・関・上野・波美の5大字を編成[1]。1890年(明治23年)の人口は2,269人だった[1]。 1923年(大正12年)、河守駅と福知山駅を結ぶ北丹鉄道が開業した[1]。1926年(大正15年)には河守と舞鶴を結ぶバスの運行が開始され、1933年(昭和8年)には河守と福知山を結ぶ北丹バスの運行が開始されている[1]。 1950年(昭和25年)の人口は2,360人だった[1]。1951年(昭和26年)4月1日、河守町河守上村・河東村・河西村・有路上村・有路下村を編入、同時に改称して大江町が発足した。 行政歴代村長・町長
出典は『大江町史 通史編 下巻』[2] 交通名所・旧跡
脚注参考文献
関連項目 |