河内王河内王(かわちのおおきみ/― おう)は、日本古代の皇族(諸王)であるが、飛鳥時代から平安時代にかけて同名異人が散見する。川内王とも。
河内王 (飛鳥時代)飛鳥時代の皇族である河内王(生年不詳 - 持統天皇8年(694年)4月以前)は、確実な史料に系譜が見えないものの、『新撰姓氏録』・『皇胤紹運録』などの分析からは、敏達天皇皇子・押坂彦人大兄皇子系統の諸王で、百済王の子か孫である可能性が高い(後述)。その場合、子に高安王・桜井王・門部王がいる。なお、敏達天皇の皇孫百済王の子孫という意味で、朝鮮半島の百済の王族ということではない[1]。 天武天皇の朱鳥元年(686年)1月新羅の金智祥を饗するため、大伴安麻呂・藤原大嶋らとともに筑紫に派遣される。時に浄広肆。同年9月天皇崩御に及んで、その殯宮に左右大舎人のことを誄していることから、当時それらを統轄する官職に就いていた可能性がある。持統天皇3年(689年)閏8月筑紫大宰帥に任じられ、兵仗や物を賜る。同4年(690年)10月大伴部博麻らを送還した新羅の送使金高訓らを饗する際、詔によって学生土師甥らを送還した送使[2]の先例に準ぜよと命じられた。同6年(692年)閏5月詔によって沙門を大隅と阿多へ派遣して仏教を伝え、また大唐大使郭務悰が天智天皇のために造った阿弥陀像を献上するように命じられた。 持統天皇8年(694年)4月5日に浄大肆を贈位され、賻物(喪主に送られる葬祭料)を賜っているので、同年3月中に筑紫で客死したのであろう。『万葉集』巻3・417-419には、王を豊前国鏡山に葬る際、手持女王(王の妻か)の詠んだ挽歌3首が見える。現在、福岡県田川郡香春町鏡山に所在する勾金陵墓参考地(河内王陵)は、1894年(明治27年)当時の宮内省が河内王の墓である可能性を考慮して治定したものだが、考古学上は外輪崎古墳(香春鏡山古墳とも)と呼ばれる6世紀後半の円墳であり、王の年代とは合わない。北東約500mの字大君原(ホウキ原)に径6m程の墳丘があり、こちらを王の墓とする伝承も見られるが[3]、詳細は不明である。 河内王 (奈良時代)奈良時代の皇族である河内王(生年不詳 - 神亀5年7月19日(728年8月28日))は、天武天皇の皇孫にして、長皇子の第一子と推定されている[4]。 和銅7年(714年)1月に二世王(孫王)として无位から従四位下に蔭叙されたが、以後はさしたる事績もなく、神亀5年(728年)7月19日に卒去した。 なお、『本朝皇胤紹運録』には、王の子として高安王・桜井王・門部王を挙げているが、これは確実な史料と整合せず、誤りとすべきである(後述)。 系図における両者の混同以上2人の河内王は活動時期も没年も異なるため、明らかに別人であるが、系図の上では永らく両者は混同して扱われてきた経緯がある。すなわち、室町時代に成立した『本朝皇胤紹運録』には次のような系図が示されており、旧来これに従って、高安王ら兄弟は天武天皇の曾孫に位置付けられることが多かった[5]。
しかし、長皇子の子である河内王が和銅7年(714年)初叙されたのに対し、孫とされる門部王と高安王がそれより早い同3年(710年)・同6年(713年)初叙されていることは不審であり、また、高安王ら兄弟が天平11年(739年)賜姓された大原真人氏の出自に関して、『新撰姓氏録』左京皇別には敏達天皇の孫・百済王であることが明記されている点を考慮すると、高安王らを天武天皇の曾孫に架ける『紹運録』の系図は完全な誤りと断じて差し支えない。田中卓は早くにこの誤りを指摘しただけでなく、同系図が2人の河内王を混同していた可能性を看破し、「長皇子―河内王」と「河内王―高安王」との要素に切り離した上で、系図を以下のように復原している。
高安王・桜井王・門部王の3人を兄弟とし、またその父を河内王とする系譜は『紹運録』独自の史料だが、彼らのような遠皇親は本来系図に記載されるべき性質のものではないため、転写の際に私的に増補(書継ぎ)された情報ではないかと思われる。したがって、個別の要素には史実を含んでいる可能性があり、全体の史料性に疑問があるからと言って簡単に否定し去るべきではない。根拠は明らかでないが、河内王を百済王の子とする系図[6]が存在することも一応の参考とはなろう。 脚注
参考文献
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