沖縄諮詢会沖縄諮詢会(おきなわしじゅんかい、Okinawa Advisory Council)または沖縄諮詢委員会(おきなわしじゅんいいんかい)[注釈 1]は、1945年8月15日の石川民間人収容所において、琉球列島米国軍政府の招集による住民代表者会議の結果、同年8月20日に美里村石川に設けられた同軍政府の諮問機関。 太平洋戦争末期の沖縄戦により沖縄県庁が壊滅した後の、沖縄本島における最初の行政機構で[注釈 2]、15人の委員からなる合議制諮問機関として機能し[1]、1946年に沖縄民政府が創設されるまで米国軍政府と沖縄諸島住民との意思疎通機関としての役割を果たすことになった。なお、専門の庁舎は存在せず、石川収容所内にある委員の自宅が事務所として利用された[2]。 背景1945年3月26日、アメリカ軍は沖縄県慶良間諸島に上陸し、続いて4月1日には沖縄本島に到達して日本軍と熾烈な地上戦を展開し、これを占領した(沖縄戦)。米軍はチェスター・ニミッツ海軍元帥の名で軍政府布告(ニミッツ布告)を発布し、南西諸島における日本の支配の停止とアメリカによる支配を宣言した。4月5日には読谷村比謝に米国軍政府が設置され、6月23日の牛島満第32軍司令官の自決により、日本軍の組織的抵抗が終わり、9月7日の降伏文書調印で名実ともに沖縄は米軍の支配下に入った。 そうした中、軍政府は沖縄の民間人を12の民間人収容所に強制収容した。8月15日、軍政府は石川民間人収容所に128人の民間人を招集し、全島住民代表者会議を開催した。この会議の結果、中央政府設立の準備機関として沖縄諮詢会の設置が決められる[3]。 委員選出の過程当時MISに属していた日系二世のマサジ・マルモト中尉の証言によれば、彼は6月20日に来島した際に「避難民収容所を回って指導的地位にあるものを捜索せよ」という命令を受けた。丸本らは6週間かかって150人をリストアップして「石川会議」の代議員とし、最終的に126人の各地区代表者が石川収容所に集められたが、代表者の中には、あらかじめ軍から志喜屋孝信(旧制開南中学校元校長)を委員長に選ぶよう言われた者もいた。また、会議の目的を知らされない者もいた。軍政府のモードック中佐は、仮諮詢会の冒頭で会議の目的を次の3つとした。
また委員の構成について、軍政府は、
と説明した。特に5. の米国の機嫌をとるのを望まないという部分は参加者の印象に残ったという。8月15日中には委員候補24人が選ばれ、8月25日に15人の委員が選ばれた。 しかし、委員の選出は一見民主的であったが、軍政府は沖縄統治にとって都合が悪いと判断した人物、例えば大政翼賛会に関与していた平良辰雄や当間重剛ら、また本土復帰を早くから唱えていた仲吉良光らなどをあらかじめ排除していた。また、前述の通り、志喜屋を委員長に選出するための工作も行われていた[4]。 「民意代表機関」をめぐって上述の通り、軍政府は仮諮詢会の目的の一つに「民意代表機関」について議論することを挙げていた。実際、民意代表機関については活発な議論がなされたが、2回の仮諮詢会では結論が出ず、「組織、方法につきては諮詢委員会に一任する」こととなった。結局、民意代表機関は1950年の群島議会の設置まで持ち越された[5]。 諮詢会の機能行政機能沖縄諮詢会は、合議制に基づく軍政府の諮問機関という位置付けだったが、当初から行政機関としての機能も併せ持っていた。発足後まもなく、文化部は演芸会の巡回開催を企画している。社会事業部は1か月で20人の人員を抱え、発足の半年後には全体で217人の職員を有した。諮詢会委員の意欲は旺盛で、「やりすぎ」であるとして米軍側と摩擦を生じることもあった。当時社会事業部長を務めた仲宗根源和の回想によれば、配給が不足すると直接軍に直訴するよう住民に勧めたりしたという[6]。 立法機能諮詢会はまた、立法機能も一部保持しており、諮詢会記録によると、土地所得権認定措置法、所得税法、戸籍法などが検討されたが、肝心の部分は米国軍政府により抑えられていた[7]。 沖縄諮詢会委員一覧沖縄諮詢会委員に選出された15人は以下の通りである。
脚注注釈出典参考文献
関連項目外部リンク
|