池田博道
池田 博道(いけだ ひろみち)は、江戸時代中期から後期にかけての岡山藩の家老。通称は弁之進、刑部、右膳、隼人。建部池田家(森寺池田家)9代当主。 家系建部池田家(森寺池田家)は池田恒興の育ての親の森寺秀勝に始まる家で、恒興の三男池田長吉の三男長政が実兄の3代森寺長貞の養子となって池田氏を称し、備前建部1万4000石(6代宗春以降は1万石)を領した。代々岡山藩家老。[1]明治39年(1906年)博愛が男爵に叙され華族となる。庶子は森寺氏や森氏を称す。 略歴延享5年(1748年)、岡山藩家老池田俊清の四男として誕生。母は広島藩家老上田重羽の次女登和子。幼名は民之助。初名清煕。 嫡男だった兄・勝敬が早世したため、宝暦13年(1763年)に16歳で嫡男となる。明和2年(1765年)4月、父の隠居により家督を継ぐ。 天明8年(1788年)、仕置家老となる。寛政8年(1796年)、藩政改革を志す藩主池田斉政に藩財政悪化の責任を問われ、仕置職を辞職する。 寛政10年(1798年)、御津郡中田村(後の建部村)の別邸に、家臣瀧野善左衛門等に命じて、家中子弟の文武修練のため学問所を設置する。成績の優秀なものには加増し、劣るものには禄を減じた。また、指導にあたる教授には、家禄の他に職俸を給した。[2] 享和3年(1803年)、隠居し嫡男の博教に家督を譲る。文化9年(1812年)8月4日没。墓所は阿光山建部池田家墓所(岡山県岡山市北区建部町)。次男の忠真は正室仙の実家伊木家に養子入りしている。 系譜出典参考文献
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