池広一夫
池広 一夫(いけひろ かずお、1929年10月25日 - )は、日本の映画監督。脚本家の石松愛弘は義弟。 来歴東京府(現東京都)出身。父親は大映の重役で[1] 製作部長・大阪支社長・東京撮影所所長などを歴任した池広利夫。東京都立千歳中学校(のちの東京都立千歳高等学校)卒業[2]。幼少時から撮影所の近くで育ったこともあり、小学生時代には子役としての活動もしていた[2]。立教大学経済学部在学中は「映画研究会」に属する[2]。映画監督を志し[1]、父親の反対を押し切り、レッドパージで加藤泰らを解雇した影響から臨時の助監督を募集していた大映京都撮影所の入社試験を受験[1]。1950年10月付で同社に入社。同期には土井茂、黒田義之、井上昭らがいる。 助監督として森一生、溝口健二、市川崑らについた後、1960年12月に『薔薇大名』で監督デビュー[1]。2作目の『天下あやつり組』は権力者を風刺する作品であったため、風刺を嫌い、また武州鉄道汚職事件の渦中でもあった大映社長永田雅一の怒りを買い、助監督に降格させられた[1]。 まもなくチーフ助監督(ノンクレジット)として『大菩薩峠』で撮影した那智滝を見た市川雷蔵に能力を高く評価され、雷蔵の主演作品『沓掛時次郎』には雷蔵直々に監督に指名された[1]。この作品は新しいタイプの股旅映画として評価され監督復帰するも、市川崑のB班監督(『破戒』『雪之丞変化』)も並行して務めている。池広は『沓掛時次郎』がなければその後の監督人生はなかったと述べ、監督に抜擢した雷蔵を恩人と評している[1]。 1962年には、『座頭市物語』を監督することになっていたが、市川崑の希望で『破戒』のB班監督に就くことになり、降板している。 以降、勝新太郎主演『座頭市』シリーズや市川雷蔵主演『眠狂四郎』シリーズをはじめとしたプログラムピクチャーを数多く手がけ、大映時代劇の黄金期の一翼を担った。『眠狂四郎女妖剣』(1964年、シリーズ第4作)において、独自の手法で演出をするなど高評価を得てヒット作とし、シリーズが終わりを迎える可能性もあった眠狂四郎シリーズを人気作に押し上げた[1]。 大映倒産後は、映像京都へ参加した[2]。1971年、勝プロ作品『片足のエース』で文部省青少年映画賞最優秀賞を受賞[2]。1972年には東京映画で、再び股旅作品『無宿人御子神の丈吉シリーズ』の三部作を撮った。以降、テレビドラマを数多く手がける傍ら、映画『化粧』を発表した。 その後、映像京都からも離れ、1990年に土曜ワイド劇場内で放送がスタートした、露口茂・主演(1996年からは片岡鶴太郎主演)『終着駅』シリーズで監督(作品によっては脚本も兼任)を務め[3]、2022年に放送された最終作まで一貫して監督を務めた。このシリーズは自身のライフワークであると発言していた[1]。 人物自身が監督した中でのベスト映画は『ひとり狼』と『おんな極悪帖』と答えている[4]。 監督作品映画
テレビドラマ
脚注参考文献
外部リンク
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