江橋英次郎江橋 英次郎(えはし えいじろう、1885年(明治18年)9月21日[1][2] - 1963年(昭和38年)1月7日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴茨城県出身[1][2][3]。東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業[1][2][3]。同年4月、歩兵少尉に任官し歩兵第15連隊付となる[1][3]。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した[1][2][3]。 1913年(大正2年)6月、教育総監部付勤務となり、歩兵第28旅団副官を経て、1915年(大正4年)8月、歩兵大尉に昇進し歩兵第15連隊中隊長に就任[1]。1916年(大正5年)1月、第12師団参謀となり、教育総監部課員、教育総監部付、陸軍航空部員参謀を務め、1925年(大正14年)3月、歩兵中佐に進んだ[1]。同年5月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となり陸軍航空本部員に就任[1]。1926年(大正15年)1月、フランスに出張し、1927年(昭和2年)8月に帰国[1]。1928年(昭和3年)8月、航空兵大佐に進み飛行第6連隊長に就任[1][3]。下志津陸軍飛行学校教育部長を経て、1932年(昭和7年)2月、上海派遣軍航空部長に充用され第一次上海事変に出動し、同年5月に帰国した[1][2][3]。 1933年(昭和8年)8月、陸軍少将に進み下志津飛行学校幹事に就任[1][2][3]。以後、航空本部補給部長、第1飛行団長、所沢陸軍飛行学校長を務め、 1937年(昭和12年)3月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。熊谷陸軍飛行学校長を経て、1938年(昭和13年)12月、航空兵団司令官に発令され、満州の防空を担った[1][2][3]。1939年(昭和14年)12月、参謀本部付となり、同月予備役に編入された[1][2][3]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。 脚注参考文献
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