水野忠順水野 忠順(みずの ただより、文政7年9月17日(1824年11月7日) - 明治17年(1884年)12月9日)は、江戸時代後期(幕末)の上総鶴牧藩の第3代(最後)の藩主、華族。忠位系水野家6代。従五位下、山城守、壱岐守、周防守、肥前守、子爵。正室は前田利之の三女・建子。養子に水野忠義、水野忠宝。 生涯第2代藩主・水野忠実の次男として生まれる。天保11年(1840年)12月16日に従五位下・山城守に叙位・任官する。天保13年(1842年)、父の死去により家督を継ぎ、6月17日に壱岐守に遷任する。 嘉永元年(1848年)に奏者番に任じられる。嘉永7年(1854年)1月に周防守に遷任し、文久2年(1862年)3月に肥前守に遷任する。藩政では困窮者救済のために米を与えたり、学問を奨励して藩校・修来館を創設している。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順する。しかし4月、鶴牧藩内の市原郡五井村で五井戦争が起こる。この不手際から明治元年(1868年)10月、安房国長狭や上総国夷隅・市原・埴生・長柄・山辺などの所領を上知され、代わって上総国市原・望陀両郡に新たな所領を与えられた。 明治2年(1869年)の版籍奉還で鶴牧藩知事に任じられる。忠順は官制・軍制改革を主とした藩政改革を行なったが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官された。後に子爵となる。明治17年(1884年)12月9日に死去した。享年61。 家族父母
妻
養子
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