水野忠敬

 
水野忠敬
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 嘉永4年7月10日1851年8月6日
死没 明治40年(1907年8月17日
改名 吉太郎(幼名)、忠敬
戒名 興徳院
墓所 東京都文京区小石川の伝通院内真珠院
官位 従四位下、出羽守、羽後
幕府 江戸幕府
駿河沼津藩主→上総菊間藩
氏族 水野氏
父母 父:水野忠明、養父:水野忠誠
正室:松平正和の三女・鍈子[1]
忠亮(長男、妻に醍醐忠敬娘信子)、銓子(南部利克妻)、貞子(水野直妻)、進子(松平保男妻)[1]
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水野 忠敬(みずの ただのり)は、幕末大名明治時代の華族駿河沼津藩の第8代藩主、のちに上総菊間藩主。沼津藩水野家15代。5万石。

経歴

嘉永4年7月10日1851年8月6日)、沼津藩水野家の分家旗本(浜町水野家)の水野忠明の次男として生まれる。慶応2年(1866年)に本家の第7代藩主水野忠誠が死去したため、その養子として家督を継いだ[1]。慶応3年4月4日1867年5月7日)に出羽守に叙任し、江戸城大手門番を務めた。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新政府に協力した。

同年7月、徳川家達が東海に入ってきたため、上総菊間藩に移封となる。明治2年3月4日1869年4月15日)に羽後守に転任する。6月19日7月27日)には版籍奉還により藩知事となり、明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県で免官となった。

1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵[2]。1907年(明治40年)8月17日に死去した。享年57。

家族

父母

子女

脚注

  1. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』下巻、676-677頁。
  2. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  3. ^ 忠亮の娘・敬子(1903年生)は子爵細川立興の長男・立暢に、敦子(1907年 - 1977年)は公爵鷹司煕通の四男・信敬(堺市立水族館長)に嫁いだ。

参考文献

日本の爵位
先代
叙爵
子爵
沼津水野家初代
1884年 - 1907年
次代
水野忠亮