民主党 (イタリア)
民主党(みんしゅとう、イタリア語: Partito Democratico, "PD")は、イタリアの政党。2024年時点で、議会に議席を保有する政党の中で、第一共和政時代の政党の系譜を汲む唯一の政党でもある。 党史結成中道・左翼連合「オリーブの木」を率いたロマーノ・プローディは、1996年の総選挙で勝利して政権交代を実現したものの、与党連合の内紛からわずか2年で退陣した。その後欧州委員会委員長に就任し、約5年間にわたって欧州議会の中道左派勢力を率いた。2004年の欧州議会選挙では「オリーブの木」最大勢力である左翼民主主義者(DS)と第2勢力マルゲリータ(DL)による統一名簿を実現させ、翌年には「オリーブの木」を発展した中道左派連合「ルニオーネ」を結成、再び首相候補に選出された。 西側諸国最大の共産党であったイタリア共産党(PCI)の後継政党であるDSは、書記長のピエロ・ファッシノが左翼イメージを脱却し二大政党制へ移行すべくプローディ構想を積極的に進め、同じく二大政党制を志向するDL党首のフランチェスコ・ルテッリも構想を支持し、総選挙後の新党結成に向けて動き出した。2006年の総選挙で「ルニオーネ」は勝利しプローディは再び首相に就任したが、与党内の政策合意は以前と変わらず困難が多く、DSとDLによる新党結成への動きが加速、2007年4月に正式合意し、10月末に新党・民主党を結成した。 第2次プローディ内閣左翼政党とキリスト教民主主義政党の合流に反発も強く、DSのファビオ・ムッシらは民主的左翼を、元首相のランベルト・ディーニは自由民主主義者(DL)を結成し、PDへの参加を見送った。 16歳以上の一般市民が参加する公開選挙制度を採用した書記長選挙でDS出身のローマ市長であるワルテル・ヴェルトローニが75%の得票率を獲得して当選、プローディは名誉職的な議長に就任し世代交代を印象付けた。 2008年1月、欧州民主連合・南部の人民(UDEDR)が政権離脱し上院で内閣信任案が否決される事態となった。大統領のジョルジョ・ナポリターノは両院を解散し4月に総選挙を実施することを決定、プローディはイタリア政界の引退を表明し書記長のヴェルトローニは「ルニオーネ」を解消、左翼勢力と決別しPD単独で総選挙に臨むことを表明した[注釈 1]。 総選挙の結果PD単独では議席が増加したものの、第1党の座をPdLに明け渡し下野した。ヴェルトローニは引き続き書記長に留任したものの、翌2009年の地方選挙で敗北した責任を取って書記長辞任を表明し、後継書記長にDL出身のダリオ・フランチェスキーニが選出された。しかし任期がヴェルトローニの残任期間であったため10月に改めて書記長選挙を実施し、DS出身のピエル・ルイジ・ベルサーニがフランテェスキーニを抑えて当選した。 モンティ内閣への協力と大連立構想2011年11月12日、シルヴィオ・ベルルスコーニ首相が、脱税と売春婦等のスキャンダルで辞任。新政権の首相にはモンティ元欧州委員が就任し、イタリアが直面する財政危機問題に取り組むことになった。ナポリターノ大統領は、13日から政治指導者らとの協議を開始し、マリオ・モンティに組閣を要請した。民主党は、2013年の任期満了までモンティ首相を支える方針を明らかにした。その一方で、党内からは、「2013年の予算法を前倒しし、秋に選挙を実施する可能性を検討すべきだ」という意見も出された(ファッシナ議員)。 モンティ首相の労働改革法案等の緊縮財政法案に対して、左派系労働組合や民主党からも、批判の声が根強く上がっている。 2012年7月、2013年に予定されている総選挙を前に左翼・エコロジー・自由やイタリア社会党など中道左派諸政党による政党連合「イタリア良きコムーネ」(Italia. Bene Comune)を提唱、10月に正式合意した[7]。同年11月25日と12月5日に行われた首相候補予備選挙の結果、ルイジ・ベルサーニPD書記長を首相候補に選出した。 2013年2月、任期を前倒しする形で行われた総選挙の結果、下院では297議席(在外選挙区5議席含む)を獲得、最多得票を得た政党連合に過半数議席を付与する制度によって連合を組んだ諸政党と併せて過半数を制した[8]。一方、上院では109議席(在外選挙区4議席)で第一党となったものの、過半数を確保するには至らなかった[9]。総選挙で人民主義を掲げるインターネット政党「五つ星運動」が躍進したことから「対ポピュリズム」を標榜し、右派政党との連合交渉を開始した。 レッタ、レンツィ、ジェンティローニ内閣2014年2月22日、自由の人民の分裂や民主党内での内紛などによって大連立が不安定化した末、レッタは首相から退任を声明した。後任にはレンツィが書記長を兼任する形で指名され、ベニート・ムッソリーニの記録を抜いてイタリア統一後で最年少での首相就任となった。 2016年12月12日、上院の権限を大幅に縮小する憲法改正についての国民投票が否決され、レンツィは首相を辞任した。後任の首相にはパオロ・ジェンティローニが就任。 2017年2月19日、レンツィが書記長を辞任し、第4回イタリア民主党書記長選挙の実施が決定する。 2017年2月25日、レンツィの国民投票に反対していたベルサーニ、エンリコ・ロッシらが民主党を離党、「憲法第1条・民主進歩運動」を結党した。 2017年3月7日、書記長選挙でレンツィが再選される。 2018年3月4日、総選挙において既存の支持層が離れて下院では112議席、上院では53議席と半数以下の議席数しか獲得できず、野党に転落した。 2018年3月12日、レンツィが書記長を辞任。マウリツィオ・マルティーナ副書記長が書記長代理に昇格した。 第2次コンテ内閣2018年11月17日、マルティーナが書記長代理を辞任。これによって書記長選挙が前倒しで行われる事が決定された。 2019年3月3日、ニコラ・ジンガレッティがロベルト・ジャケッティ、マウリツィオ・マルティーナらを破って書記長に選出された。 2019年5月26日、同年の欧州議会議員選挙では親EUを前面に出し、更には敵対していた民主進歩運動と選挙連合を組んだが、苦境は変わらず31議席から19議席に後退した。 2019年8月29日、左右ポピュリズムの大連立であるコンテ内閣が五つ星運動と同盟の対立で瓦解すると、五つ星運動と第2次コンテ内閣を組閣して政権与党に復帰した。しかし左派ポピュリズムとの連立にリベラル勢力からは反発が生じた。 2019年9月18日、レンツィがリベラル・中道系の議員を率いて民主党を離党、「イタリア・ヴィヴァ」を結党した。 沿革
党役員
歴代書記長
合流政党党勢選挙結果
出典:イタリア内務省「Archivio Storico Delle Elezion」(選挙アーカイブ) 。2013年上下両院選挙は「ELEZIONI 2013 politiche e regionali del 24 e 25 febbraio」。得票はイタリア本土の結果のみを掲載。2014年欧州議会議員選挙は、ELEZIONI 2014EUROPEE, REGIONALI E COMUNALI DEL 25 MAGGIO。 脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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