ルドルフ・ヒルファディング(Rudolf Hilferding、1877年8月10日 - 1941年2月10日)は、オーストリア出身のドイツの政治家、マルクス経済学者。ドイツ社会民主党の理論的指導者。ウィーン大学医学部を出た医師であり、医業も生涯行っていた。
経歴
- 1877年 オーストリア・ハンガリー帝国のレオポルトシュタット でユダヤ人豪商のエミール・ヒルファディングの息子として生まれた。
- ウィーン大学で医学を学ぶかたわら、社会主義学生同盟のメンバーとなり、社会科学に関心をいだくようになった。
- 1902年 ドイツ社会民主党の理論的指導者カウツキーに同党理論誌『ノイエ・ツァイト』への論文掲載を要求し、以来、同誌へ『保護関税の機能変化』(1903年)、『貨幣と商品』(1911年)など多数の論文を発表した。
- 1915年 軍医として従軍する。
- 第一次世界大戦後、ワイマール共和国が成立すると、ドイツ独立社民党、ドイツ合同社民党の指導者となる。
- 1922年 ドイツ社民党が結成されると指導的理論家として迎えられる。
- 1923年 財務大臣としてレンテンマルクの導入を決定[1] するも更迭され、その後は拡張的な金融政策や財政政策などを訴えた[2]。
- 1924年 国会議員。
- 1928年~1929年 財務大臣を務めるも自らの国債の増発案、部下のヨハネス・ポーピッツの外債の発行案が租税の増税に拘るヒャルマル・シャハトの反発を受けて辞任する[3]。
- 1933年3月 アドルフ・ヒトラー内閣が成立すると、ナチス党から逃れるためフランス・パリへと亡命した。
- 1940年6月 フランス軍がドイツ軍に敗れてドイツ占領下となり、マルセイユでヴィシー政府の警察によって逮捕。ドイツの国家秘密警察(ゲシュタポ)に引き渡された。
- 1941年2月 フランスの刑務所で死体となって発見された。
主な業績
- 1904年には『ベーム・バヴェルクのマルクス批判』を発表し、ベーム・バヴェルクによるマルクス批判の反批判を行った。
- 1910年『金融資本論』を著し、帝国主義段階へと入った資本主義経済の発展にたいしてマルクス経済学の観点からの分析を与えた[4]。
- 第一次大戦後、ワイマール共和国が成立すると、ドイツ独立社民党をへて、ドイツ合同社民党を結成し、さらにドイツ社民党へ合流、党理論誌『ゲゼルシャフト』の主筆として活躍し、社会主義への過渡期としての意味を持つ「組織資本主義」を主張し、ドイツ経済の合理化運動を理論づけた[5]。
著書
- 『金融資本論』、林要訳、2分冊、弘文堂書房、1926年
- 『金融資本論』、林要訳、上・下、大月書店、1952年
- 『金融資本論』(改訂版)大月書店、上 1961年・下 1964年
- 『新訳 金融資本論』、林要訳、全2巻、大月書店(国民文庫)、1984年
- 『マルクス経済学研究――マルクス経済学前史ベーム・バウェルク批判』、玉野井芳郎・石垣博美共訳、法政大学出版局、1955年
- 『金融資本論』、岡崎次郎訳、上・中・下、岩波書店(岩波文庫)、1955年
- 『現代資本主義論』、倉田稔・上条勇共訳、新評論、1983年
- 『ナチス経済の構造分析』、倉田稔訳、新評論、1992年
参考文献
- 飯田裕康・鈴木芳徳・野田弘英・高山満 共著『ヒルファディング金融資本論入門』有斐閣<有斐閣新書>、1977年。
- A・シュタイン『ヒルファディング伝――ナチズムとボルシェヴィズムに抗して』倉田稔訳、成文社、1988年。
- 上条勇『ルドルフ・ヒルファディング――帝国主義論から現代資本主義へ』御茶の水書房、2011年。
- 倉田稔『ルードルフ・ヒルファディング研究』成文社、2011年。
関連項目
脚注
- ^ 河野裕康『ドイツの賠償および通貨問題とヒルファディング』
- ^ 河野裕康『ドイツ1920年代半ばのヒルファディングの景気政策と調査及び経済体制論』
- ^ 林健太郎『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』中公新書。148-150p
- ^ レーニン『資本主義の最高の段階としての帝国主義』、『レーニン全集』第22巻、大月書店、1957年、224ページ
- ^ 上条勇『ヒルファディングの「組織された資本主義」論』
外部リンク