桑田藤十郎桑田 藤十郎(くわだ とうじゅうろう、1852年7月12日(嘉永5年5月25日[1][2])- 1905年(明治38年)8月25日[2][3])は、幕末から明治時代の素封家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・安之助。 経歴伯耆国久米郡倉吉宿魚町(鳥取県東伯郡倉吉町字魚町を経て現倉吉市魚町)で、先代・桑田藤十郎の子として生まれる[1][4]。生家の当主は代々藤十郎を通称し、父の死去に伴い15歳で家督を相続し藤十郎を襲名した[1]。 1881年(明治14年)学務委員に就任し、町立成徳小学校校舎の新築に当たり資金を提供した[1]。1882年(明治15年)久米郡会議員に就任し、さらに、鳥取県会議員、所得税調査委員などを務めた[1][3][4]。 中等教育機関・山陰義塾の設立に係わった[1]。また、金融機関・倉吉融通会社を設立して社長となり、山陰製糸会社を創立して生糸製造とその改良に尽力した[1][2]。 1890年(明治23年)に鳥取県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[5]から1897年(明治30年)9月28日まで在任した[2][3][4]。 親族脚注参考文献
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