栗木尚謙栗木 尚謙(くりき ひさかた[1]、1753年3月20日(宝暦3年2月16日)[2] - 1815年2月23日(文化12年1月15日)[2])は、伯耆国米子(現在の鳥取県米子市)の武士(鳥取藩士)[1]。『樵濯集』の著者[1][2]。栗木家8代目[2][3]。初めの諱は祥宜(よしのぶ)、幼名は助三郎[2]。 経歴米子城下に生まれる[2][注 1]。1763年に父・義成が死去し、11歳で跡目相続する[2]。1778年、米子城の御破損奉行に任ぜられ、禄高200石となる[1][2]。1779年、諱を尚謙と改め、字を柘植義方の撰で子恭と名乗る[2]。 1787年、病気のため退役を願い許され、2年半余家に籠る[2]。1790年、再び出仕を要請され、御破損奉行に再任され、以後その職に11年専念する[2]。1800年に退役するまで21年間御破損奉行を務めた[2]。また槍術の師範役だった[3]。 1815年、死去した[1]。法号は通宵院一貫道微居士[1]。墓所は米子市愛宕町の総泉寺[1]。 人物『樵濯集』は、因幡藩士で、米子組士の一人である栗木の著作である[2]。古代からの孝義、勲功、良吏等の事跡、古記録、古老の見聞などを集めたもので、米子地方の江戸時代の社会、民俗などを知るうえで価値がある[1]。 家族
栗木尚謙の『先祖聞書き覚え』によると、「栗木家は、越前朝倉義景の旗下・真柄十郎左衛門の苗裔である。しかし当家系図書等は水難によって詳細ではない。護国院様へ召し出された当家元祖は、十郎左衛門の子息であろう」という[3]。栗木家13代目の栗木尚謙(米子市東町)は、8代目と同名である[3]。
脚注注釈出典参考文献
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