栗島狭衣
栗島 狭衣(くりしま さごろも、1876年4月5日 - 1945年11月6日[1])は、日本の俳優、新聞記者、劇作家、脚本家である。本名は栗島 山之助(くりしま さんのすけ)、出生名は川村 山之助(かわむら さんのすけ)である[1]。 人物・来歴1876年(明治9年)4月5日、東京府東京市日本橋区蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)に元力士の綾瀬川山左衛門(本名 川村藤次郎)の長男「川村山之助」として生まれる[1]。当時の綾瀬川は割烹旅館を営んでいたが、出身地の大阪に帰り、長男の誕生から1年に満たない1877年(明治10年)3月8日に死去した。 1898年(明治31年)、旧制・國學院(現在の國學院大學)国文科を卒業、東京朝日新聞社に入社する[1]。相撲記者・演劇記者を務め、1899年(明治31年)12月、23歳のときに『文壇の三偉人』を上梓している[2]。1899年(明治32年)、与謝野鉄幹が創設した東京新詩社に参加する[3]。 1905年(明治38年)5月には、文士劇の劇団・若葉会を結成した[1]。メンバーは、東京朝日新聞からは栗島のほかに右田寅彦、二六新聞の岡鬼太郎、岡村柿紅、時事新報の伊坂梅雪、報知新聞の鹿島桜巷、演芸通信の小出緑水、東京毎日新聞の杉贋阿弥、人民新聞の松本当四郎で、東京日日新聞からは岡本綺堂が劇作家として参加した。同月11日に歌舞伎座で第1回、翌年1906年(明治39年)5月に第2回公演を行った。若葉会は同年、東京毎日新聞社内の組織、東京毎日新聞演劇会に発展し、栗島は東京朝日新聞を同年に退社[1]、1908年(明治41年)12月までに6回開演して解散した。 東京朝日新聞退社後は、新詩社の社友となり、退社以降も1919年(大正8年)まで同紙に寄稿をつづけた[1]。 1909年(明治42年)には、養女にした当時7歳の栗島すみ子とともに、M・パテー商会製作・公開の映画『新桃太郎』に出演している[4]。1911年(明治44年)には吉沢商店、1916年(大正5年)には天活、小林商会等で映画に出演し、井上正夫が監督・主演した『生さぬ仲』、おなじく『毒草』等の人気作に出演している。1917年(大正6年)以降は、映画脚本も執筆するようになった。 東京・有楽座のお伽芝居、帝国劇場の女優劇、近代劇協会、新派の演劇にも出演した[1]。「栗島狭衣一座」を率い、俳優・劇作家として活動した[1]。 1945年(昭和20年)11月6日、死去した[1]。満69歳没。 尾崎紅葉が翻訳し、栗島が脚色した『喜劇三箇條』を収録した『明治翻訳文学全集 新聞雑誌編 50』等を除いて、ほとんどの書籍が絶版であり、青空文庫にも収録されておらず、作家の読み仮名も誤っている[5]。国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」には、6冊の著書がデジタル画像で公開されており、閲覧・ダウンロードが可能である[6]。 ビブリオグラフィ
おもなフィルモグラフィ特筆以外はすべて出演。 M・パテー商会
吉沢商店
天活東京撮影所
小林商会
作家時代
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