岡村柿紅岡村 柿紅(おかむら しこう、1881年(明治14年)9月14日 - 1925年(大正14年)5月6日)は日本の劇作家・劇評家。狂言をもとにした歌舞伎舞踊の作品「身替座禅」「棒しばり」等は今日でもよく上演される。1915年以降、市村座の運営に関わった。 生涯本名久寿治。高知市北奉公人町に生まれ、5歳のとき、両親と叔母に従い東京へ移った。叔母『加藤はま』は、初代竹本綾之助らと女義太夫を盛んにした『竹本東玉』である。 中学卒業後独逸学協会に在籍したものの、叔母の感化で芸能界に親しみ、1901年から1909年まで中央新聞に勤め、次に二六新報に転じて劇評を書いた。1908年の有楽座開場時には、顧問を引き受けた。 1910年(明治43年)(29歳)、読売新聞に転じた。市村座の六代目尾上菊五郎・初代中村吉右衛門・七代目坂東三津五郎のために、舞踊劇『身替座禅』を書いた。翌年4月、創刊の『演芸倶楽部』の編集主任として博文館に移った。 そこをやめ原稿生活に入った翌年の1915年(大正4年)5月、市村座の座主田村成義に乞われて、顧問になり、『棒しばり』以降の台本を書いた。さらに田村の没後、嗣子寿二郎が市村座を株式会社組織にした1920年3月、同社の専務になった。 並行して、玄文社が1916年春に創刊した『新演芸』誌の主筆を、1918年9月からは、同誌が始めた『芝居合評会』の司会者を務めた。 1924年(大正13年)7月に田村寿二郎が没し、自然、市村座の代表者になった。市村座は関東大震災に焼亡し、再建し、負債を背負っていた。 既に1921年秋から、合評会への病欠が始まっていて、寿二郎没後の1924年秋には入院治療し、転地療養もしたが、病が募り、腸も損ない、自宅で亡くなった。 故人は市村座の経営に関わって劇作の滞ったことを悔いていたと、久保田万太郎が書いている[1]。 作品には、狂言の舞踊劇化や古典の翻案などが多い。次項記載のほか、『閻魔王』・『笹本家』・『秋色桜』・『よしや男丹前姿』・『伊達尽忠録』・『花見座頭』・『こんくわい』などを書いた。 初演の記録(抄)
脚注
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