林瑞峰
林 瑞峰(はやし ずいほう、1941年3月15日 - )は、日本の実業家、映画プロデューサーである[1][2][3][4][5][6][7]。 来歴ヒューマックス副社長、ジョイパックフィルム(のちのヒューマックスピクチャーズ、現在のヒューマックスシネマ)代表取締役社長、ギャガ・コミュニケーションズ取締役、株式会社カミングスーン・ティービー取締役を歴任[1][2]、現在、ヒューマックスシネマ代表取締役社長、ヒューマックスコミュニケーションズ代表取締役社長、外国映画輸入配給協会理事、東京都興行生活衛生同業組合副理事長[1][2][3][8][9][10]。 人物・来歴1941年(昭和16年)3月15日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1][2][3]。父はヒューマックスグループ創業者の林以文(1913年 - 1976年)、兄に現在の同グループ会長・林瑞祥(1935年 - )、ヒューマックス副社長・林瑞禎(1937年 - )、弟にジョイパックグループの林光男(1943年 - )がいる[1]。 慶應義塾大学商学部を卒業する[2]。満23歳になった1964年(昭和39年)4月、父が代表を務める惠通企業株式会社(現在の株式会社ヒューマックス)に入社する[3]。その2年後の1966年(昭和41年)5月、同社の常務取締役に就任する[1]。1967年(昭和42年)8月、株式会社ムーランルージュプロダクションを株式会社恵通プロダクションと改称、同社の代表取締役社長に就任する[2][3][11][12]。 1975年(昭和50年)4月1日、自らが社長を務める株式会社恵通プロダクションが、同じく常務を務めるミリオンフィルム株式会社(社長加来章)と合併し、ジョイパックフィルム株式会社を新たに設立[13]、同年5月、同社代表取締役社長に就任する[1]。1976年(昭和51年)6月、惠通企業株式会社の取締役副社長に就任する[1]。ジョイパックフィルムの時代には、外国映画を多く配給し、合併後も「ミリオンフィルム」をレーベルとして活用しおもにいわゆるピンク映画(成人映画)を製作・配給し、新宿座(新宿ジョイシネマの前身の1つ)を中心に全国で公開した[14]。やがて1980年代には、リスクの高い外国映画よりも「ミリオンフィルム」に力を入れる方針をとった[14]。 →「ジョイパックフィルム」を参照
1989年(平成元年)4月、ジョイパックフィルム株式会社を株式会社ヒューマックスピクチャーズに社名変更し、1991年(平成3年)7月には、同社を株式会社ヒューマックスシネマ、株式会社ヒューマックスアルファチャンネルと対等合併させ、新たに設立した会社の名称を株式会社ヒューマックスピクチャーズとし、ひきつづき代表取締役社長を務めた[12]。このヒューマックスピクチャーズの時代、1993年(平成5年)6月、株式会社ギャガ・コミュニケーションズ(現在のギャガ)の取締役に就任、ギャガとの提携関係を結ぶ[2][3]。「ギャガ・ヒューマックス」として、外国映画の買付・配給等に同2社のユニットで参加、共同配給を開始するのは同年であり、高額な製作費をかけた高品質の作品を輸入・配給する方針を打ち出した[15]。 1994年(平成6年)6月、富士汽船株式会社(現在の株式会社ワンダーテーブル)の取締役に就任した[1][3]。1997年(平成9年)7月10日、株式会社ヒューマックスコミュニケーションズを設立、同社の代表取締役社長に就任[2][3]、同年12月1日、ディレクTVの放送開始とともに「V☆パラダイス」を開局、これを運営した。1998年(平成10年)5月、株式会社カミングスーン・ティービーの取締役に就任する[3]。2006年(平成18年)12月、藤村哲也が株式会社フィロソフィア・エンタテインメント・アライアンス(現在のフィロソフィア株式会社)を設立するとこれに参加、同社の取締役に就任する[2]。 2003年(平成15年)5月10日に公開された『GUN CRAZY』(監督室賀厚)にヒューマックスコミュニケーションズとして出資、同作のクレジットに「製作」として名を連ねる[6][7]。以降、多くの劇場用映画の製作委員会に同社として出資、映画製作者あるいは製作総指揮(エグゼクティヴプロデューサー)として、映画製作をつづけている[4][5][6][7]。同じく代表を務めるヒューマックスシネマでは、ぴあフィルムフェスティバルの「PFFパートナーズ」に参加したり、興行部門では、池袋HUMAXシネマズ、渋谷HUMAXシネマ、横須賀HUMAXシネマズ、成田HUMAXシネマズの4サイトを経営している[8]。 フィルモグラフィクレジットは、特筆以外すべて「製作」である[4][5][6][7]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
|