板倉勝弼
板倉 勝弼(いたくら かつすけ)は、備中松山藩(高梁藩)第8代(最後)の藩主。子爵。板倉家宗家14代。 経歴初め、江戸で僧侶になる予定であったが、先代藩主の勝静が明治元年(1868年)の戊辰戦争で、旧幕府軍に最後まで忠義により与して箱館まで転戦したため、松山藩は新政府の追討を受けることとなった。そこで、藩の執政山田方谷は、勝静とともに箱館転戦した嫡男の勝全ではなく、勝弼を連れ出して新藩主に迎えることとし、川田剛を使者として迎えに行かせた。 当時の松山藩は朝敵の立場であり、藩関係者への新政府の監視の目は厳しかった。川田は勝弼に丁稚の格好をさせて備中玉島行きの船が出る横浜へと向かったが、途中で新政府軍の兵士に発見された。その時、川田は『勧進帳』の話を思い出してとっさに勝弼を殴り飛ばしたところ、兵士たちも驚いて通行を許可したため、備中松山に無事到着したと言われている。 明治2年(1869年)2月、新政府から処罰として所領を5万石から2万石に減らされた上で、勝弼の家督相続が認められた。同年10月に松山を高梁と改名し、11月に知藩事となる。明治4年(1871年)2月、新政府の命令で東京へ赴き、そのまま同年7月の廃藩置県で免官となった。 勝弼の板倉家相続の際、後日のお家騒動を防ぐため、重臣たちが勝弼に対して「板倉勝全(勝静の嫡男で父に同行していた)が松山に戻った時には必ず家督を勝全に譲る」という起請文を書かせていた。後日、新政府から赦免された勝静がこれを聞くと、「勝全は朝廷から咎めを受けた身であり、板倉家を継がせることはできない」と言って、勝弼から起請文を取り上げると、居並ぶ重臣たちの前でこれを破り捨て、改めて勝弼への忠誠を誓わせたと言われている。 1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]。明治29年(1896年)9月、上野東照宮の社司となったが、同年10月21日に51歳で死去した。法号は中興院漆山源昌大居士。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺。 栄典系譜
脚注
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