松尾あつゆき松尾 あつゆき(まつお あつゆき、1904年6月16日 - 1983年10月10日)は、長崎県出身の俳人。本名、敦之。 略歴1904年(明治37年)、長崎県北松浦郡生まれ。長崎高等商業学校(旧制。現・長崎大学)卒業後、英語教師となる[1]。在学中より自由律俳句に傾倒し、24歳のとき「層雲」に入会、荻原井泉水に師事。のち「層雲」同人、1942年層雲賞受賞。[2]。1945年、生地長崎で原爆に遭い、家と妻、四人の子供のうち長男、次男、次女の三人を失う[注釈 1]。11月、重症を生き延びた長女とともに佐世保市に転居、公立学校教員(地方公務員)となり、旧制 佐世保第二中学校の英語教師となる。1948年に再婚、生地を離れ長野県千曲市の高等学校に赴任した[9]。 1949年10月、長野県屋代東高等学校の英語教師となる。1951年春、長野県松代高等学校へ教頭として転出[10]。学校近くの大英寺の土蔵を住まいとした[11]。 1956年、長野県原水爆被災者の会初代会長に就く[12][13]。1958年5月の総会を最後に、会長を退いた[14]。 1959年が定年(当時は55歳定年)だったが、1961年3月まで松代高校に勤めた後、長崎へ帰った[15]。 1972年、教え子の支援をうけ、被曝体験を綴った句集『原爆句抄』を私家版で出版。のち版を替えてたびたび再刊されている。集中の「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」が代表句として知られ、1961年に長崎市下之川橋国道沿いに建立された、12人の俳人による原爆合同句碑にこの句が刻まれている(のち長崎原爆資料館の公園に移設)。1983年10月死去、79歳。1988年には長崎平和公園の「祈りのゾーン」に、「降伏のみことのり妻をやく火いまぞ熾りつ」句碑、および『原爆句抄』から「なにもかも-」の句を含む複数の句を刻んだ句碑が設置されている[16]。 句碑
松尾あつゆき原爆句碑は長崎原爆資料館の前にある[17][18]。
長崎原爆資料館の前に設置されている。12人の俳人による原爆合同句碑である[19]。 著書参考文献
関連文献
脚注注釈出典
外部リンク
|