東雲 (東雲型駆逐艦)
東雲(しののめ)[7]は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、東雲型駆逐艦のネームシップである。同名艦に吹雪型駆逐艦(特I型)の「東雲」があるため、こちらは「東雲(初代)」や「東雲I」などと表記される。 艦歴1897年(明治30年)10月、イギリスのソーニクロフト社で「第三号水雷艇駆逐艇」として起工。1898年(明治31年)3月16日、第三号水雷艇駆逐艇は「東雲」と命名される[7]。3月21日、帝国海軍は海軍軍艦及水雷艇類別標準を制定[8]。東雲型の各艦は水雷艇駆逐艇に分類された[9]。 1899年(明治32年)2月1日に竣工し、水雷艇(駆逐艇)に類別[2]。同年4月15日、横須賀に到着[10][2]。1900年(明治33年)6月22日、帝国海軍は海軍艦艇類別標準を制定、水雷艇駆逐艇の分類が廃止され、軍艦の一種として「駆逐艦」の種別が設けられた[11]。東雲型の各艦も駆逐艦に類別される[12]とともに、同日付で佐世保鎮守府所管となる[13]。また不知火以外の5隻は常備艦隊に編入された[14]。 1902年(明治35年)6月7日、沖縄県を巡航中に池間島北方に広がる八重干瀬で座礁。巡洋艦明石、済遠、駆逐艦薄雲の救助を受けた後、8月5日に佐世保に帰港した[15]。 1904年(明治37年)、日露戦争が勃発した際には第一艦隊(司令長官:東郷平八郎海軍中将、旗艦:戦艦三笠)の第三駆逐隊に所属していた[16]。2月8日の第一回旅順口攻撃では、防護巡洋艦パルラーダに魚雷を命中させる戦果を挙げた。その後黄海海戦、日本海海戦などにも参加した[2][16]。戦勝後の1905年(明治38年)10月23日、横浜沖で挙行された凱旋観艦式に参列、第四列に配置された[17]。 1905年(明治38年)12月12日駆逐艦に種別が変更された[2]。 1912年(大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別標準を改正。駆逐艦のカテゴリーが軍艦から分離され、計画排水量1,000トン以上を一等、1,000トン未満600トン以上を二等、600トン未満を三等駆逐艦と規定された[18]。東雲型駆逐艦は三等駆逐艦に類別された[19]。 1913年(大正2年)7月20日、淡水から馬公に回航の途中、台南庁安平港北西沖で暴風のため座礁[2][20]。同年7月23日、船体切断し沈没。同年8月6日、除籍[21]。同年11月29日、沈没のまま売却[2]。 艦長※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
脚注出典
参考文献
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