東洋紡績伊勢工場東洋紡績伊勢工場(とうようぼうせきいせこうじょう)は、1922年(大正11年)7月に東洋紡績山田工場として完成した紡績工場。1972年(昭和47年)に伊勢工場に改名して、三重県伊勢市船江1丁目に立地していた。1999年(平成11年)に工場が閉鎖された。伊勢工場の跡地はミタス伊勢などの商業施設や伊勢赤十字病院となった。
歴史資料によると第一次世界大戦後の世界恐慌勃発による不況下で東洋紡績の発祥地の三重県で積極的経営姿勢を実施する事とした。設備投資(工場新設政策の1つ)として宇治山田市(現在の三重県伊勢市)に精紡機24,000錘をもつ最新式の大工場として、1920年(大正9年)5月に山田工場を新築して、1922年(大正11年)に精紡機37048錘で創業したのが始まりである。紡績工場が開設された時期の1926年(大正15年)の調査では職員32人、工員3,082人(うち女性2,549人)、その他の従業員167人で、1年の生産額は6,978,040円であった[1]。これは、2番目に大きかった綾部製糸度会工場(二俣町)の6.7倍という圧倒的な生産額である[2]。戦前に漸次設備を増設して精紡機を61,708錘、織機を2,016台、撚糸機3,200台を保有したが、1945年(昭和20年)7月の宇治山田空襲で精紡機33708錘、織機1232台、撚糸機は全滅の被害を受けて、工場設備の大半を失った。ファンケル創業者の池森賢二の父は戦前期に東洋紡績山田工場で電気技師として勤務していたエピソードもある[3]。 戦後東洋紡績伊勢工場は工場再建事業を行い、1950年(昭和25年)12月に紡績部門第一工場を復元して、精紡機69600錘、織機1364台、撚糸機12000錘の設備で操業を続けた。この頃、「若草楽団」と称する楽団が従業員によって結成されていた[4]。1965年(昭和40年)時点で696人の従業員(うち女性541人)を抱え、ブロードなどシャツやブラウス生地を主力製品としていた。1967年(昭和42年)に入ってからは近代化・合織化を推進して旧設備の改造、新鋭機械の導入など工場設備投資や近代工場化を積極的に実施して、精紡機並びに織機など24時間連続のフル操業を実施して、純綿糸、エステル、混紡糸を紡績部門に導入して、その糸を織物とする紡績一貫工場となった。[5]1972年(昭和47年)4月26日に工場名を東洋紡績山田工場から東洋紡績伊勢工場に改名した。東洋紡績社員向けの教育にも力を入れ、「東紡山田高等実務学校」と「東紡准看護婦養成所」を開設した[6]。工場の敷地面積は15.3haであった。 工場操業時代の末期の1993年(平成5年)3月中には、5日間操業休止を行い、従業員に自宅待機が指示された[7]。1996年(平成8年)の末には織布部門の操業を停止した。[8]、綿紡績部門が残って操業していたが1999年(平成11年)7月2日の発表で同年中に閉鎖することになり[9]、12月に東洋紡績伊勢工場が閉鎖された。東洋紡績伊勢工場の跡地を伊勢市が買収するようにと伊勢商議所が伊勢市に請願書を出した。東洋紡績は伊勢市に東洋紡績伊勢工場跡地の買い取りを申し入れた。伊勢市は民間進出の場合に限定する事を条件にして買収を計画した。東洋紡績の跡地は伊勢市の市街地地域に巨大な空地を誕生させる事になり、伊勢市の市長選挙で紡績工場の跡地利用が争点の1つともなった[10]。 2000年(平成12年)、伊勢商工会議所は伊勢市に跡地を買収を求める請願書の提出や伊勢市民への署名運動を行った。[11]2005年(平成17年)、東洋紡績は跡地を不動産会社に売却することを決定した。独自に土壌汚染調査を行った。ミタス伊勢の北側の敷地には山田赤十字病院が移転する予定だった。東側の敷地は宅地として不動産開発をする計画であった。2008年(平成20年)5月1日、東洋紡績跡地にバローを核テナントとするミタス伊勢が開業した。2012年(平成24年)1月4日には山田赤十字病院が東洋紡績伊勢工場跡地に移転して同時に病院名を改称し、新しい「伊勢赤十字病院」となり診療を開始した。 建物
参考文献
引用
脚注
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