本山 茂宗(もとやま しげむね)は、戦国時代の大名。土佐七雄と称された本山氏当主。
生涯
永正5年(1508年)、土佐国本山郷の豪族・本山養明の子として誕生。
武勇に優れた人物で、『土佐物語』では「其器傑出して、偏に興立の志ありければ、近辺の金銀衣食を与へて是を懐け、諸士に賄を厚くして親みをなし、遂に人数を催して、土佐・吾川両郡に発向して、随はざるをば攻亡し、降を乞ふをば、免して幕下になし、両郡く打摩け、猛威を振ふ事甚し」といわれる傑物だった。
本山氏は土佐七雄の中では最も勢力が大きく、茂宗は山深い土佐北部から出て、経済的に豊かな土佐中央部へ侵攻し勢力を拡大。本城の本山城を子の茂辰に譲り、朝倉城に本拠を移して経営をたくましくした。天文9年(1540年)頃、契機を見て荒倉山を超えて吾川郡弘崎に兵を進め、その地の豪族・土佐吉良氏を滅亡に追い込む[1]。さらに、土佐国の有力大名であった土佐一条氏の軍と戦うなど、本山氏の最盛期を築き上げた。長宗我部氏に対しては快く思っておらず、室町幕府に媚びていた長宗我部氏を「虎の威を借る野狐」と称した[2]。
弘治元年(1555年)、死去。茂宗の死後、本山氏は長宗我部氏の反攻を受けるようになる[3]。
歿後三百六十年顕彰祭
大正2年(1913年)4月5日、高知県長岡郡本山町において、旧本山城主・本山茂宗入道梅渓歿後三百六十年祭ならびに同旧本山領主・山内刑部一照卿顕彰三百年祭が合同で斎行され、本山氏一族と山内刑部子孫一族が一堂に会した[4]。式典は新たに建立された「本山茂宗顕彰碑」が本山氏の直系子孫・本山熊太郎の手によって除幕され、つぎに一同は隣接する「山内刑部一照夫妻墓所」へ移動。山内刑部直系子孫・山内一正(板垣家家令)の令息・一夫が墓前に香華を手向けた。その後、一同は本山城址に登って往時を懐古し、午後1時より嶺北の東光寺において合同法要が執り行われた。法要では本山茂宗へは高橋平太郎が祭文を奏上。山内刑部へは板垣退助が祭文を奉り、安芸喜代香が代読している[4]。
祭文
維時大正二年四月五日、勲八等・高橋平太郎、本山氏を代表し謹んで故本山城主・本山茂宗公、並故本山郷領主・山内刑部一照公の霊を祭る。其詞に曰く「本山茂宗公は夙に大志あり、長・土・吾、三郡の地を領し、威名赫々土佐七雄の随一」と称せられ、令名今に嘖々たり。而して山内刑部一照公、藩主山内氏に仕へられ本山郷初代の領主として拮据二十余年。地方の治政に任ぜられ、其功績、寔に偉大なりとす。思ふに両公は門閥傑出の士。而して其遺芳、功績千古不朽。東光寺の挙、豈偶然ならんや。茲に兆民を代表し、謹んで一言を述べて両公の英霊を祭る。
大正二年四月五日
祭典係総裁 高橋平太郎敬白
[4]
山内刑部卿を祭る文
予の祖先は板垣駿河守信方より出でたるも、其孫の代に中り山内刑部卿の第二子が入りて家を嗣ぐ。爾来血脈連綿以て今日に至れり。卿は驍勇にして智謀あり。一豊公の土佐に入らんとするや、長曽我部氏の遺臣ら之を謀らんとするあり。形勢頗る危険なるを以て、卿は公に代りて自ら「一豊公なり」と称し、甲浦より上陸して堂々国に入る。この途に果して乱をなす者あり。即ち火を放つて卿を襲ひたるも、卿よく之を防ぎ幸に免るゝことを得る。而して、公は其隙に乗じて海路微行し、浦戸城に入れり。今に柄の焼けたる長槍を伝ふ。実に卿が用ゐて敵を防ぎたるものなり。一豊公の土佐に入るや卿に賜ふに本山一円の地を以てす。然るに高石左馬之助なる者、之に服せず瀧山に據りて戦ふ。卿、之を攻めて遂に悉く之を夷ぐ。時に敵弾、卿の乗れる鞍の前輪に中れる。以て其激戦の状を想見すべし。今や卿、逝てより三百年に際し、義故の士、相謀りて其祭典を修するに会ふ。予、其裔孫たるにより、遺事を序て謹んで其霊を祭る。若し知るあらば、冀わくば饗けよ。
大正二年四月五日 伯爵
板垣退助[4]
山内刑部一照の三百回忌は本来なら大正8年(1919年)6月30日に執り行われる予定であったが、板垣退助も山内一正も高齢であった為、板垣が健在なうちに行いたいとの地元からの要望により、4年前倒しまた本山氏の顕彰祭と合同で斎行されることとなった[4]。
脚注
- ^ 茂宗は吉良駿河守の不意を襲ったという。
- ^ ただし土佐一条家の仲介を得て長宗我部氏と縁組している。また、長宗我部国親の出家を茂宗の死を悼んだものとする説もある(朝倉慶景「戦国末期の国人本山茂辰とその家族たち」(初出:『土佐史談』232号(2006年)/所収:平井上総 編『シリーズ・織豊大名の研究 第一巻 長宗我部元親』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-125-7))。
- ^ 茂宗の死は本山氏の家運に決定的な打撃を与え、長宗我部氏との均衡が崩れる要因を成した。
- ^ a b c d e 『土陽新聞』大正2年4月8日附
参考文献