木村直樹 (陸軍軍人)
木村 直樹(きむら なおき、1888年(明治21年)9月15日[1] - 1957年(昭和32年)12月28日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級[2] 経歴1888年(明治21年)に山口県で生まれた[1]。陸軍士官学校第22期卒業[3]。1937年(昭和12年)に陸軍歩兵大佐に進級し、札幌連隊区司令官に就任[2]。1939年(昭和14年)5月に歩兵第119連隊長(第1軍、第109師団、歩兵第118旅団)に転じ[2]、日中戦争に出動[1]。五台作戦、潞安掃討戦などを連戦し[3]、同年12月に京都連隊区司令官に転じた[2]。 1941年(昭和16年)9月に陸軍少将に進級し、歩兵第19旅団長(第14方面軍、第16師団)に就任。フィリピン攻略戦に参加した[3]。同年10月に第16歩兵団長に転じ[1]、1942年(昭和17年)8月31日に予備役に編入された[1]。9月1日に召集され、父島要塞司令官に着任し[1]、1944年(昭和19年)2月14日に召集解除となった[2]。同年6月21日に召集され、京都連隊区司令官に就任[1]、1945年(昭和20年)3月に兼京都地区司令官となり[1]、終戦を迎えた。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。 栄典
脚注参考文献
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