木下夕爾木下 夕爾(きのした ゆうじ、1914年(大正3年)10月27日 - 1965年(昭和40年)8月4日)は、日本の詩人、俳人。本名・優二。 人物・来歴広島県福山市御幸町に生まれる。広島県立府中中学(現・広島県立府中高等学校)を卒業後、1933年にいったんは第一早稲田高等学院文科(仏文科)に入学するが、養父の結核発病に伴い家業を継ぐために転学した。1938年に名古屋薬学専門学校(現・名古屋市立大学)を卒業し、広島県福山市の実家で薬局を営む。以後、終生郷里を離れなかった。この間堀口大学に傾倒し影響を受けており、13歳のときには堀口の詩誌「若草」で特選を取っている。1940年、第一詩集『田舎の食卓』を刊行、第6回文芸汎論賞を受賞。1949年に詩誌「木靴」を創刊・主宰。以後の詩集に『生まれた家』(1940年)『笛を吹くひと』(1958年)など。日本詩人クラブ、日本現代詩人会に所属。 戦中、疎開してきていた同郷の作家井伏鱒二らと親交を持った。夕爾の十周年忌の1975年の追悼公演で、井伏は夕爾からの最期の手紙を読み上げるも途中で絶句し、涙ながらに公演を切り上げた。 また1944年より安住敦の俳誌「多麻」に投句、1946年より久保田万太郎の俳誌「春燈」に参加。万太郎に激賞され「春燈」主要同人となる。1956年句集『南風妙』、1959年『遠雷』を刊行。1961年、広島春燈会を結成、また句誌「春雷」を創刊・主宰する。句風は『遠雷』までの、心象風景を強い叙情性をもって描いた時期と、『遠雷』以降の、情を適度に交えつつ写生の方法を生かした時期とに大きく分けることができる[1]。総じて瀟洒で線の細い句であり、師である万太郎にならい、平易な言葉による柔らかな表現を目指した[2]。代表句として「家々や菜の花いろの灯をともし」(『遠雷』所収)がよく知られている。 1965年横行結腸癌により福山市御幸町の自宅で死去、50歳。戒名は淳誠院釈夕爾法圓居士[3]。没後に刊行された『定本木下夕爾詩集』は第18回読売文学賞を受賞した。 著作図書
校歌
参考文献
脚注
外部リンク
|