安住敦安住 敦(あずみ あつし、1907年7月1日 - 1988年7月8日)は、俳人、随筆家。前号・安住あつし。 経歴東京市芝区生まれ。1917年に福島県平町(現・いわき市)に移り磐城中学に入学。1923年、父の事業の失敗のため東京に戻り、立教中学校に転入、1926年卒業。逓信官吏練習所を卒業を経て1928年に逓信省簡易保険局に入所。父の事業の失敗で上級学校に進めなかったことは、俳人として名をなして以降もつねに意識のなかにあったという。 1930年、同僚に誘われて短歌結社「覇王樹」に入会し、短歌を橋田東声に師事。同時期にやはり同僚に誘われ、上司の富安風生が主宰する「若葉」に入会し俳句を風生に師事。以後8年の間短歌と俳句をともに続ける。1935年、「旗艦」に参加し、日野草城に師事、新興俳句運動に関わる。1944年、移動演劇連盟に転職、同年に俳誌「多麻」創刊。7月に応召。 1946年、逓信省に戻るとともに、久保田万太郎を擁して大町糺とともに「春燈」を創刊。万太郎を擁しての「春燈」創刊は敦のたっての願いで、以後編集人として同誌の赤字解消・刊行継続のために孤軍奮闘した。1947年、俳句作家懇話会を結成、また岸風三楼、加倉井秋をらとともに「諷詠派」を創刊。1949年より官業労働研究所に勤務。1961年、俳人協会設立に参加。1963年に万太郎が没し、「春燈」主宰を継承。 1966年、『春夏秋冬帖』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。1972年、句集『午前午後』他で第6回蛇笏賞受賞。1972年、紫綬褒章受章。1982年、俳人協会会長に就任(1987年まで)。1984年より朝日俳壇選者(1986年まで)。1985年、勲四等旭日小綬章受章。1988年7月8日、肺炎により死去。81歳。東京都目黒区祐天寺に埋葬され、七回忌を機に同境内に句碑「てんとむし一兵われの死なざりし」が建てられた。 作品
などが代表句。初期に短歌を学んだことで叙情性が涵養された。「旗艦」時代は無季の連作俳句などを作り注目されたが、最初に師事した富安風生の温和さを終生慕い続けた。「春燈」創刊時には「風景のうしろに人間がいなければつまらない」と理念を掲げ、以後市井人の哀歓を叙情的に詠んだ句を作り続けた。 著書句集
随筆
その他
その他
参考文献
関連文献
外部リンク
|