朝野鹿取
朝野 鹿取(あさの の かとり)は、平安時代初期の公卿。氏姓は忍海原連のち朝野宿禰、朝野朝臣。正六位上・忍海原鷹取の子[1]。 経歴大和国出身。立身するために、叔父・忍海原道長の養子となる[2]。延暦10年(791年)忍海原魚養の言上により、一族と共に忍海原連から朝野宿禰に改姓する。延暦11年(792年)自ら申請して父の戸籍に戻るが、この際に父の鷹取も朝野宿禰姓を追賜されている[2]。若くして大学寮で学び『史記』『漢書』を修得する。漢音に通じたことから音生として試験を受ける[3]。のち相模博士を経て、対策に及第して文章生に補せられる。 大学寮で学んだ知識を評価されて、延暦21年(802年)遣唐使の准録事として入唐し翌年帰国[3]。のち大宰大典・式部少録・左大史・左近衛将監を歴任する傍ら、『日本後紀』『内裏式』の編纂に携わり、さらに皇太子・神野親王(のち嵯峨天皇)の侍講も務めた[3]。 嵯峨天皇即位後の弘仁元年(810年)蔵人に任ぜられ、翌弘仁2年(811年)それまでの侍講の功労により従五位下に叙爵[3]。同年左衛士佐次いで左衛門佐、弘仁5年(814年)左近衛少将と武官を歴任する一方、弘仁8年(817年)従五位上、弘仁10年(819年)正五位下と嵯峨朝後半にかけて順調に昇進する。弘仁11年(820年)正月に病気により辞官を願い出ると、許された上で従四位下に昇叙され[4]、同年5月には兵部大輔として復職する。のち、中務大輔・民部大輔を経て、弘仁14年(823年)に蔵人頭に任ぜられる。 同年4月の嵯峨天皇譲位・淳和天皇即位を通じて、蔵人頭を辞任して左中弁に遷任する。天長4年(827年)従四位上・大宰大弐に叙任される。鹿取は大弐の任を解くことを求めて上表するが許されず[3]、淳和朝後半は大宰府に下向した[5]。 仁明天皇が即位した天長10年(833年)参議に昇進して公卿に列す。議政官として式部大輔・左大弁・民部卿を兼ねたのち、承和7年(840年)正四位下、承和9年(842年)従三位に叙せられる。同年鹿取を含む一族19人が宿禰姓から朝臣姓に改姓している。 承和10年(843年)6月11日薨去。享年70。最終官位は参議従三位勲六等兼越中守。 人物生まれつき慎み深い性格であった。政務に明るく官吏としての才能を称賛され、人々からの評判が良かった。また大歌を得意としていた[3]。漢詩作品として『文華秀麗集』に6首が採録されている。 官歴注記のないものは『六国史』による。
脚注出典 |