旧三笠ホテル
旧三笠ホテル(きゅうみかさホテル)は、長野県北佐久郡軽井沢町にある歴史的建造物。国の重要文化財。 三笠ホテルという名称は、敷地前方の愛宕山が奈良県の三笠山に似ていることから、有島生馬、里見弴、山本直光によって付けられたという。 概要実業家山本直良によるホテル開業は1906年(明治39年)5月[2]。 建物は1905年(明治38年)に竣工した日本人の設計による純西洋風木造建築で、設計は岡田時太郎、監督は佐藤万平、棟梁は小林代造。アメリカのスティックスタイル(Stick style)を採用したゴシック風の華麗な外観で、扉のデザインはイギリス風、下見板はドイツ風、用材は小瀬のアカマツを現場で製材した。国際避暑地・軽井沢の雰囲気を当時のまま今に伝える貴重な名建築の1つである。 欧米人とともに渋沢栄一、団琢磨、住友友純、乃木希典、愛新覚羅溥儀といった著名人が多く宿泊したことから、「軽井沢の鹿鳴館」とも呼ばれていた[3]。上皇后美智子も独身時代に宿泊している。 現在は本館の一部のみが残るが、かつての広いホテル敷地内には、別館のほか、庭園、テニスコート、プール、クリケットヤードなどもあった。なかでも同じくホテル敷地内に設置されていた窯元では、名匠宮川香山によって幻の焼き物「三笠焼」が創出され、この窯元にはバーナード・リーチ、藤井達吉らも訪れた。 軽井沢駅から遠い立地であることから、古くは駅-ホテル間を馬車での送迎が行われていた[4]。旧軽井沢の市街地とホテルを結ぶ道は、「三笠通り」という名の美しい並木道となっており、「新・日本街路樹100景」に選出されている。 なお、かつてホテルで振る舞われていたカレーとコーヒーは当時のレシピをもとに再現されており、食べることができる。 歴史1906年(明治39年)、営業を開始し、客室は30室、定員は40名、宿泊料は一等が12円、二等が8円、三等が5円。1907年(明治40年)、日本館が完成したが、1910年(明治43年)8月、明治43年の大水害のため流出した(なおこのとき、ホテルには渋沢栄一、森村市左衛門、成瀬仁蔵が宿泊していた)。その様子は当時のニューヨーク・タイムズにも”The Mikasa Hotel Destroyed”と報じられた[5][6]。 1919年、洋風別館が完成。1925年(大正14年)に経営母体が変わり、(株)三笠ホテルとなり、明治屋に名義変更した。 1944年(太平洋戦争中)、休業した。また軽井沢が駐日外国人の主要疎開地として指定されたことから、外務省の軽井沢出張所が設置された。なおスイス公使館は三笠ホテルの向かいに位置し、各国外交団の中心的役割を担い、疎開生活の食料調達等の交渉にあたった。 戦後はアメリカ陸軍第一騎兵師団に接収され、進駐軍の施設となる。1951年、進駐軍の失火により別館が焼失。1952年、米陸軍第八軍の使用終了後、三笠ハウスの名称で営業を再開し(支配人山名伝兵衛)、1970年(昭和45年)まで営業を続けた。 創業者山本直良の次男・直光によれば、ホテルとしては部屋数が少なく、ましてや夏季2ヶ月のみのビジネスであったことから、何年やっても黒字経営にはならなかったという[4]。直良自身ものちに「広く公衆と共に軽井沢の地を楽しもうと思ひ道楽半分に建てた」と述べている(なお建物の構造がホテルとしては独特である[7]ことから、もともと個人邸として建てられたのではないかという説もある)[5]。 1972年2月、日本長期信用銀行によって買収され、1974年2月、現在地の南方から70m移転した。この移築の折、文化庁と協議した結果、建築的価値のある本体部分を残し、食堂、調理場、浴室等は解体されることになった。1980年(昭和55年)3月27日、日本長期信用銀行から軽井沢町に贈与された。 廃業の時点で竣工当初の建物のおよそ50%が現存しており、1980年5月31日に「旧三笠ホテル」として国の重要文化財に指定され[8]、保護されている。 2019年12月28日より、耐震補強を含む大規模保存修理工事を行うため、長期休館。工事終了は2024年3月の予定[9]。 施設
建築概要
利用情報内部公開は1983年4月から行なわれている。[2]
交通アクセス周辺
脚注
関連項目
外部リンク
|