PERGURUAN TINGGI
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日量
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(
2017年5月
)
日量
(にちりょう、
1771年
4月2日
(
明和
8年
2月18日
) -
1851年
6月28日
(
嘉永
4年
5月29日
)は、大石寺第48世法主。清姓。
略歴
1771年
(
明和
8年)2月18日、富士上条にて誕生。
1789年
(
寛政
元年)、細草檀林に入檀。
1797年
(寛政9年)、京九条
住本寺
(現在
正信会
僧侶が占有中)住職。
1808年
(
文化
5年)、細草檀林80代化主となる。
1808年
(文化5年)8月、江戸下谷
常在寺
住職。
1813年
(文化10年)11月、
大石寺
帰山。
1815年
(文化12年)、大石寺学頭となる。
1816年
(文化13年)12月7日、興目御両尊和讃を著す。
1817年
(文化14年)2月16日、44世
日宣
より法の付属を受け、48世日量として登座。
1817年
(文化14年)11月、日目以下歴代御伝を著す。
1820年
(
文政
3年)8月、日量、49世日荘に法を付属し、寿命坊に移る。
1823年
(文政6年)5月、富士大石寺明細誌〔宝冊〕を著す。
1824年
(文政7年)6月、本因妙得意抄を著す。
1825年
(文政8年)2月、
日寛
上人伝を著す。11月、目師略伝を著す。
1826年
(文政9年)11月、尾張本因妙講を激励す。
1827年
(文政10年)1月18日、尾張信徒を激励す。
1828年
(文政11年)12月、尾張信徒を激励す。断疑生信録を著す。
1830年
(
天保
元年)5月8日、49世日荘寂。6月24日、日量ふたたび登座。
1831年
(天保2年)8月、
日蓮
大聖人第550遠忌を修す。
1831年
(天保2年)9月、日量、50世
日誠
に法を付属し、寿命坊に移る。
1832年
(天保3年)11月、美濃垂井に
日目
500遠忌の大塔婆建立。
1836年
(天保7年)5月1日、50世日誠寂。日量、法を51世
日英
に付属する。
1836年(天保7年)5月、続家中抄を著す。11月、事一念三千抄を著す。
1840年
(天保11年)2月28日、江戸
常泉寺
において
天英院
殿100回忌法要3日間執行。
1841年
(天保12年)10月、幕府の御尋12ケ条に返答す。
1843年
(天保14年)12月、当体義抄題号記を著す。
1846年
(
弘化
3年)10月、富延問答記録案を著す。
1850年
(
嘉永
3年)11月13日、興師一代略頌を著す。
1851年
(嘉永4年)5月29日、80歳で死去した。
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日珠
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次代
日荘