日本炭礦専用鉄道
| 路線総延長 | 8.3 km | 軌間 | 1067 mm |
停車場・施設・接続路線
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大君線
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大君坑(五坑)
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四坑線:猪熊四坑
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三ッ頭
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?
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三坑線:高松三坑
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?
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頃末
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折尾駅 JR九:鹿児島本線
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JR九:筑豊本線
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高松線:高松一坑
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出典「北九州の専用鉄道1950-1960見聞記」32頁
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日本炭礦専用鉄道(にほんたんこうせんようてつどう)は、鹿児島本線折尾駅から福岡県遠賀郡水巻町及び芦屋町にある日本炭礦の炭鉱とを結んだ専用鉄道である。石炭の輸送が主であるが坑員輸送にも使用された。
路線データ
路線長は戦前(昭和10年-昭和18年)は6.9km[1]。戦後(昭和32-37年)は8.3km[2]。大君坑廃坑により4.7km[3]となった。
機関庫のある頃末を中心として東側に鹿児島本線折尾駅までを折尾線、北側に大君坑までの路線を大君線、南側へ鹿児島本線を交差して高松一坑までの路線を高松線と称した。他に構外側線として大君線から分岐して猪熊四坑に向かう四坑線、高松三坑に向かう三坑線があった。
石炭積込場は1953年[4]に高松1坑、高松2坑、高松3坑、高松4坑、梅ノ木、大君、高松5坑であったものが1957年[5]に高松1坑、高松2坑、高松3坑、大君、高松5坑に減り1961年[6]には高松1坑、高松2坑だけになった。
坑員輸送に客車を運行しており停車場は一坑吉田配給所前、鯉口、頃末病院前、二坑事務所前、梅ノ木、三ツ頭社宅前があった。また家族の通学、病院の通院、芦屋や柏原の海岸で海水浴をするため利用されていた[7]。
歴史
この専用鉄道は一時は筑豊御三家(安川敬一郎、麻生太吉、貝島太助)と対抗した新興炭坑王といわれた三好徳松[8][9]が経営する三好鉱業[10]と大君鉱業[11]で産出された石炭輸送のため炭坑のある水巻村及び芦屋町から国鉄折尾駅まで敷設したものである。当初の石炭の運搬方法は遠賀川支流の曲川より若松港まで川艜[12]で運び、船着場までは馬車や荷車、離れたところは軌条を敷きトロッコを使っていたが運搬費が嵩んでいた。そのためエンドレスロープ[13]によりトロッコで折尾駅まで運搬する方法[14]になり、1927年(昭和2年)より蒸気機関車による輸送に変わった。
水巻の炭鉱は一部を伊藤伝右衛門の大正鉱業[15]が所有しているものを除き三好徳松が広大な鉱区を所有していた。昭和初頭三好が所有していた主力の炭鉱は高松本坑、高松第二坑、高尾坑であった。高松の名の由来は炭鉱のそばに松の巨木がありこれを高松といったことからつけられたとされ高松の名は水巻村より知られていたという[16]。しかし三好が1931年(昭和6年)8月に急死すると世界恐慌による炭価の暴落もあり1934年(昭和9年)に三好鉱業と大君鉱業は鮎川義介率いる日産コンツェルンが設立した日本炭礦に買収されることになる[17]。以降日本化学工業、日産化学工業へ社名を変更した後日本鉱業に合併されたが分離され日本炭礦となった。1952年(昭和27年)鮎川から菊池寛実へ経営が移る。
日産の系列になると近代化され出炭量は1935年(昭和10年)に61万トン、1940年(昭和15年)に154万トンと大幅に増加した。終戦直後は出炭量は落込んだものの昭和30年代前半には戦前をしのぐ出炭量を誇るようになる、しかし高度経済成長の時代に入ると石炭離れにより販売の7割を占める大口の製鉄所や火力発電所[18]からの取引が打ち切られると生産過剰で貯炭がふえ経営が悪化していく[19]。
高松四坑(猪熊四坑)は1953年(昭和28年)に採掘が中止となり、大君坑も1962年(昭和37年)に閉山となったため大君線は廃止される。そして日本炭礦は水巻から撤退することになり1965年(昭和40年)には専用鉄道は全線の運行を停止した。
その後石炭積込場は住宅団地や公共施設となり線路敷は道路や宅地造成で埋め立てられた。[20][21]
- 1926年(大正15年)4月7日 三好・大君両鉱業に対し専用鉄道敷設免許(折尾駅-芦屋町柏原、本線5哩9鎖、側線1哩32鎖 動力蒸気、軌間1067mm)[22]
- 1926年(大正15年)10月13日 専用鉄道敷設免許(水巻村大字頃末-同村大字吉田、1哩30鎖)[23]
- 1927年(昭和2年)4月19日 折尾-頃末間1.6キロ、頃末-高松間2.2キロ開業(認可)[24][25]
- 1928年(昭和3年)4月21日 折尾基点1哩20鎖より2哩68鎖迄の間開業(認可)[26]
- 1929年(昭和4年)11月26日 折尾基点2哩68鎖より3哩13鎖(大君)まで間開業 (認可)[27]
- 1934年(昭和9年)7月26日 日本炭礦設立[28][29][30]
- 1934年(昭和9年)12月21日 専用鉄道を日本炭礦に譲渡(許可)[30]
- 1936年(昭和11年)10月 梅ノ木鉱閉鎖[31]
- 1937年(昭和12年)2月16日 日本化学工業に商号変更[32][28]
- 1937年(昭和12年)6月 高尾鉱閉鎖[31]
- 1937年(昭和12年)12月3日 日産化学工業に商号変更[33][28][34]
- 1941年(昭和16年)10月31日 高松三坑側線増設免許(折尾起点2.803km - 高松三坑間990m)[35]
- 1942年(昭和17年)3月 高松三坑出炭[36]
- 1943年(昭和18年)3月1日 日本鉱業が日産化学工業を吸収合併[37][38]
- 1945年(昭和20年)7月 日本鉱業より分離し日本炭礦となる[39][40][41]
- 1946年(昭和21年)5月 高松四坑出炭[36]
- 1952年(昭和27年)7月 鮎川は日本炭礦を菊池寛実へ売却[42]
- 1953年(昭和28年)7月 高松四坑採掘中止[36]
- 1956年(昭和31年)10月 大君坑の出炭[36]
- 1961年(昭和36年)昭和36年下期より慢性的に赤字になる[43]
- 1962年(昭和37年) 大君坑の閉山 (10月[36])により路線短縮(延べ4.7キロ)[44]
- 1965年(昭和40年)3月 高松二坑採掘中止[36]
- 1965年(昭和40年)6月 運行を停止[44]
- 1966年(昭和41年)2月 高松一坑閉山[44] [36]
- 1971年(昭和46年)4月3日 臨時株主総会にて会社解散決議[45]
日本炭礦の生産量
年度
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梅ノ木坑
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高尾坑
|
高松一坑
|
高松二坑
|
高松三坑
|
高松四坑
|
高松五坑
|
常磐坑
|
二島坑
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合計
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1934 |
72,300 |
58,956 |
216,040 |
|
|
|
|
|
|
347,296
|
1935 |
122,667 |
118,087 |
377,973 |
|
|
|
|
|
|
618,727
|
1936 |
76,845 |
127,897 |
440,499 |
133,348 |
|
|
|
|
|
778,589
|
1937 |
|
2,500 |
460,413 |
340,424 |
|
|
|
|
|
803,337
|
1938 |
|
|
474,541 |
630,745 |
|
|
|
|
|
1,105,286
|
1939 |
|
|
459,756 |
877,246 |
|
|
|
|
|
1,337,002
|
1940 |
|
|
518,280 |
1,025,557 |
|
|
|
|
|
1,543,837
|
1941 |
|
|
410,278 |
676,022 |
1,140 |
|
|
|
|
1,087,440
|
1942 |
|
|
414,405 |
463,377 |
30,065 |
|
|
|
|
907,847
|
1943 |
|
|
469,734 |
441,572 |
101,963 |
|
|
|
|
1,013,269
|
1944 |
|
|
436,759 |
395,363 |
92,888 |
|
|
|
|
925,010
|
1945 |
|
|
202,957 |
193,116 |
50,032 |
|
|
|
|
446,105
|
1946 |
|
|
173,246 |
204,838 |
82,673 |
18,326 |
|
|
|
479,083
|
1947 |
|
|
196,806 |
247,538 |
92,982 |
52,526 |
|
|
|
589,852
|
1948 |
|
|
236,932 |
280,780 |
129,676 |
71,712 |
|
|
|
719,100
|
1949 |
|
|
253,490 |
280,835 |
146,094 |
76,609 |
|
|
|
757,028
|
1950 |
|
|
344,500 |
361,681 |
179,066 |
90,753 |
|
|
|
976,000
|
1951 |
|
|
360,050 |
399,250 |
185,050 |
86,050 |
|
|
|
1,030,400
|
1952 |
|
|
290,802 |
362,260 |
161,165 |
66,707 |
|
7,098 |
|
888,032
|
1953 |
|
|
371,652 |
395,561 |
170,400 |
16,440 |
|
7,416 |
|
961,469
|
1954 |
|
|
391,885 |
430,210 |
161,460 |
|
|
9,160 |
|
992,715
|
1955 |
|
|
363,297 |
398,802 |
146,045 |
|
|
442 |
13,522 |
922,108
|
1956 |
|
|
369,429 |
406,855 |
195,817 |
|
65,155 |
335 |
68,764 |
1,106,355
|
1957 |
|
|
403,943 |
448,820 |
202,550 |
|
168,260 |
104,667 |
153,850 |
1,482,090
|
1958 |
|
|
382,907 |
226,870 |
175,436 |
|
174,108 |
187,781 |
254,629 |
1,401,731
|
1959 |
|
|
401,616 |
160,012 |
162,229 |
|
185,735 |
191,194 |
274,213 |
1,374,999
|
1960 |
|
|
415,435 |
|
186,243 |
|
165,210 |
187,265 |
535,657 |
1,489,810
|
1961 |
|
|
360,010 |
|
171,266 |
|
123,660 |
129,290 |
378,334 |
1,162,560
|
1962 |
|
|
564,569 |
7,500 |
318,445 |
|
34,900 |
211,831 |
613,805 |
1,751,050
|
1963 |
|
|
464,700 |
26,500 |
434,650 |
|
|
250,200 |
497,350 |
1,673,400
|
1964 |
|
|
419,400 |
41,180 |
426,780 |
|
|
237,450 |
401,090 |
1,525,900
|
- 『水巻町誌 増補』238、352頁
- 二島坑(二島鉱業所)は若松市大字二島にあり石炭は二島埠頭から船積みしており専用鉄道は使用していない
車両
動力は終始蒸気機関車を使用していた。所有の石炭車は社線用で国鉄から石炭車が乗り入れて石炭を運んでいた[46]。社宅が大君、梅ノ木、頃末、高松にあり通勤列車が運行されていた[47]。
記録も少なく、書類は不備が多く機関車の廃車が不明、改造したとされる貨車がそのままであったり、客車の製造年が曖昧など不明確な点が多い[48]。
蒸気機関車
当初は国鉄よりの払下げ機であったが戦時中の石炭増産による輸送量増強と5700形の老朽化により国鉄C11形及び国鉄C12形と同設計のタンク機関車を新製した。
譲受・使用
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形式番号
|
製造年
|
製造所
|
廃車
|
備考
|
1927 |
2080 |
1901 |
ナスミス・ウィルソン |
1941 |
詳細は国鉄1800形蒸気機関車#2080形
|
1927 |
2081 |
1901 |
ナスミス・ウィルソン |
1941
|
1928 |
510 |
1894 |
ダブス |
|
1942年に耶馬渓鉄道の同形機に部品を貸し休車となる。 以後の動向は不明1952年解体[49]詳細は国鉄400形蒸気機関車
|
1932 |
5737 |
1899 |
スケネクタディ |
|
詳細は国鉄5700形蒸気機関車
|
1933 |
5738 |
1899 |
スケネクタディ |
1960[50]
|
1934 |
5736 |
1899 |
スケネクタディ |
|
1935 |
5735 |
1899 |
スケネクタディ |
1960[50]
|
1938 |
5743 |
1899 |
スケネクタディ |
|
1941 |
C1101 |
1941 |
日立製作所 |
|
除煙板はついていない 1101は1964年1月解体[51]
|
1944 |
C1102 |
1943 |
日立製作所 |
廃線時
|
1949 |
C1201 |
1949 |
日立製作所 |
廃線時 |
C1203は三井三池港務所[52]で使用していた元国鉄C1297を購入
|
1952 |
C1202 |
1952 |
日立製作所[53] |
廃線時
|
1953 |
C1203 |
1934 |
三菱造船所 |
廃線時
|
- C1102、C1201、C1202、C1203は引き取り手がなく解体された[54]。
貨車
谷口の調査では全貌解明は出来ず、全数量不明[55]。
- セキ11-20 国鉄セキ1000形貨車と同形の貨車を1942年日立製作所で製作[55][56]。
- セキ22-27 国鉄セキ3000形貨車と同形の貨車を1951年日立製作所で製作[55]
- 国鉄セキ1形貨車が出自とされるが詳細は不明
- セキ28-32(譲受年不明)、33-37(1958年4月譲受)、38-42(1959年4月譲受)[55]
- 無蓋貨車を国鉄より譲受。譲受年両数は1928年2両、1932年2両、1934年1両、1936年3両、1937年8両[57]
- 1948年1月国鉄より特別廃車された貨車ト1形、ト6000形、ト10300形、ト10100形(伊那電気鉄道買収車)、ワ1形、ワ1700形、セム1形(西日本鉄道買収車)、セム3750形(小倉鉄道買収車)計22両を購入しト21-28ほか番号不明2両、ワ2・3、セム1-10[58]。
- 1948年12月国鉄より特別廃車されたト1形、ト1030形、ト4900形、ト6000形、トム5000形、ワ1形、ワ17000形計14両を購入しト29-37、トム2・3、ワ4-6[59]
- 1953年に国鉄より有蓋貨車9両(ワ18506、ワ18655、ワフ7988、ツ527、ワ18060、ワ4433、ワフ3985、カ30、ワフ1421)を譲受し無蓋貨車に改造した[60]ことになっているが谷口がワフ7988の廃車体を確認している[55]。
客車
谷口が現地調査した1954年には戦後入線したボギー客車2両のみで2軸客車はすべて廃車されており[61]車両台帳には7両(ハ1-7)が掲載されていたが、国鉄資料(鉄道統計資料、門鉄局報、鉄道公報)では以下の8両が判明している[62][63]。
1950年に国鉄ホヤ6760形2両を購入。元は鉄道作業局と九州鉄道のボギー車であるが度重なる改造により原型は失われている
- 鉄道作業局ユボ10(1907年新橋工場製)→鉄道院ホユフ8557[69]→鉄道省ホユ4750→ホヤ6762→日本炭礦ホハフ6762→ホハフ6761
- 九州鉄道ハ14(1899年東京車輌製)→鉄道院ホハ6772[70]→鉄道省ナユフ8586→ナユ4801→ホヤ6763→日本炭礦ホハフ6761→ホハフ6762
脚注
- ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』、『地方鉄道及軌道一覧. 昭和12年4月1日現在』、『地方鉄道及軌道一覧. 昭和15年11月1日現在』、『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『私鉄要覧』昭和32-37年
- ^ 『私鉄要覧』昭和38年
- ^ 「全国専用線一覧表昭和28年度」『トワイライトゾーンMANUAL4』
- ^ 「全国専用線一覧表昭和32年度」『トワイライトゾーンMANUAL7』
- ^ 「全国専用線一覧表昭和36年度」『トワイライトゾーンMANUAL』
- ^ 『日炭回顧録』54、105頁
- ^ 福岡県多額納税者、元衆議院議員『人事興信録. 7版』、『貴族院多額納税者名鑑』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 明治3年遠賀郡浅川村三ツ頭の貧農の六人兄弟の長男として生まれる。21の時に三菱が所有して最新設備を導入していた鯰田炭坑で働くことになる。やがて一番頭領まで出世した三好は三ツ頭にもどり地元の炭坑で働くようになるがまもなく鉱区所有者となり徐々に群小の炭坑の買い集め規模を拡大し第一次大戦期には石炭成金の一人となった『水巻町誌 増補』144-153頁
- ^ 三好鉱業『日本全国諸会社役員録. 第28回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 大君鉱業『日本全国諸会社役員録. 第30回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 船底が平たく浅い川船のこと。長さ7間幅1間2尺。積載量は7000斤水巻町誌 増補』136頁
- ^ 循環するロープにトロッコを連結して走行させる装置。岡本憲之『全国鉱山鉄道』JTB、2001年、119頁
- ^ 大正4年三好炭坑送炭場から折尾駅構内側線貨車積込場まで863m設置大正8年には梅ノ木、頃末、高松、高尾、各炭坑を結ぶようになる『水巻町誌 増補』151、160頁
- ^ 大正鉱業『日本全国諸会社役員録. 第30回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『水巻町誌』385頁
- ^ 「ニ炭鉱を日産が合併 新会社を設立」「東京朝日新聞」1934年7月8日朝刊(聞蔵2ビジュアル)
- ^ 八幡製鉄、川崎製鉄、神戸製鋼、旭硝子、日本板硝子、日本硝子、小野田セメント、日本セメント、宇部セメント、各電力会社そのた『石炭年鑑』1957年版、171頁
- ^ 『水巻町誌 増補』350頁
- ^ 「北九州の専用鉄道1950-1960見聞記」32頁
- ^ 線路敷は福岡県道202号水巻芦屋線、福岡県道203号中間水巻線(バイパス南北縦貫道路)、第一高松坑石炭積込場は吉田団地。1:25000地形図 折尾 昭和27年9月30日 地理調査所、1:25000地形図 折尾 平成11年2月1日 国土地理院
- ^ 申請時は石炭輸送を折尾駅と柏原港への輸送を考えていた。No1「折尾町芦屋町間専用鉄道敷設免許ノ件」『鉄道省文書・日本炭礦(元三好、大君鉱業)・大正十五年~昭和九年』
- ^ No.3「水巻村地内専用鉄道敷設免許ノ件」『鉄道省文書・日本炭礦(元三好、大君鉱業)・大正十五年~昭和九年』
- ^ No.16「折尾ー頃末・頃末ー高松間運輸開始ノ件」『鉄道省文書・日本炭礦(元三好、大君鉱業)・大正十五年~昭和九年』
- ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』は頃末-高松間運輸開始1928年4月21日
- ^ No.24「運輸開始ノ件」『鉄道省文書・日本炭礦(元三好、大君鉱業)・大正十五年~昭和九年』
- ^ 「北九州の専用鉄道1950-1960見聞記」、31頁
- ^ a b c 『株式会社年鑑. 昭15年版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『日本全国諸会社役員録. 第44回(昭和11年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b No.1「三好鉱業、大君鉱業、日本炭礦専用鉄道譲渡ノ件」『鉄道省文書・日本鉱業(元日本炭礦、日本化学工業、日産化学工業)・昭和九年~昭和二十四年』
- ^ a b 『水巻町誌 増補』231頁
- ^ 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和12年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ No.10「商号変更届進達ノ件」『鉄道省文書・日本鉱業(元日本炭礦、日本化学工業、日産化学工業)・昭和九年~昭和二十四年』
- ^ 『日本全国銀行会社録. 第47回(昭和14年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ No.13「側線増設ノ件」『鉄道省文書・日本鉱業(元日本炭礦、日本化学工業、日産化学工業)・昭和九年~昭和二十四年』
- ^ a b c d e f g 『水巻町誌 増補』432頁
- ^ 『株式会社年鑑. 昭和19年版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「謹告」「朝日新聞」1943年4月3日朝刊(聞蔵2ビジュアル)
- ^ 本社福岡市、第一鉱業所 水巻町大字吉田、高松鉱業所 水巻町大字頃末、大君鉱業所 遠賀郡芦屋町、二島鉱業所 若松市大字二島、山田鉱業所 山田市大字下山田『石炭年鑑』1957年版、170頁
- ^ 但し申請は事後の1947年。No.1「 日本鉱業、日本炭砿、高松炭礦専用鉄道譲渡について」『運輸省文書・日本炭礦・昭和二十二年~昭和二十八年』
- ^ 当社営業中石炭鉱業ニ属スル営業ノ譲渡ニ関シ之ガ承認ヲ求ムル件「定時株主総会公告」「朝日新聞」1945年6月25日朝刊(聞蔵2ビジュアル)
- ^ 『水巻町誌 増補』349頁
- ^ 『水巻町誌 増補』353頁
- ^ a b c 「北九州の専用鉄道1950-1960見聞記」、32頁
- ^ 「日本炭鉱が会社解散をきめる」「朝日新聞」1971年4月4日朝刊(聞蔵2ビジュアル)
- ^ 「北九州ののぞき処」
- ^ 『芦屋町誌』1972年、501頁
- ^ 専用鉄道の監督は地方鉄道と比較すればやや簡略なものであった。そのため車両の監督も一般地方鉄道ほどの詳細さはなく、また現在残されている専用鉄道関係文書も断片的ですべてがそろうわけではない。澤内一晃・星良助「北海道の専用鉄道車両」『鉄道史料』No.120
- ^ 「北九州の専用鉄道1950-1960見聞記」33頁
- ^ a b 奈良崎博保「九州地方の古典ロコを拾う」『鉄道ピクトリアル』No.138、54頁
- ^ 「日本炭鉱のSL全滅」『鉄道ファン』No.55、60頁
- ^ 所有者は三井化学工業(三池染料工業所)No7「車輌設計について」『運輸省文書・日本炭礦・昭和二十二年~昭和二十八年』
- ^ 「鉄道車輌 C12型タンク機関車」『日立論評』 34巻、1号、1955年1月。https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1955/01/1955_01_22.pdf#page=4。
- ^ 『鉄道ファン』No.60、63頁
- ^ a b c d e 「北九州の専用鉄道1950-1960見聞記」38頁
- ^ No.18「貨車竣功の件」『鉄道省文書・日本鉱業(元日本炭礦、日本化学工業、日産化学工業)・昭和二十四年』
- ^ ト35・863・3843・5036・5113・6277・7211・7599・7781・8241・10343・11089・13914・15638・15639・16300。No.12「省有貨車譲受使用ノ件」『鉄道省文書・日本鉱業(元日本炭礦、日本化学工業、日産化学工業)・昭和二十四年』
- ^ ト15543、ト6861、ト2102、ト10404、ト16828、ト15300、ト10100、ト126、ト7797、ト6471、ト7616、ト18096、セム××、セム××、セム××、セム3797、セム3835、セム3792、セム3831、セム3800、セム10047、セム10067。××は文書判読不能。No4「貨車譲受使用について」『運輸省文書・日本炭礦・昭和二十二年~昭和二十八年』
- ^ ト2162、ト16702、ト2772、ト5018、ト1840、ト6131、ト6117、ト10405、ト7266、トム5103、トム5982、ワ17889、ワ9640、ワ9641。No7「車輌設計について」『運輸省文書・日本炭礦・昭和二十二年~昭和二十八年』
- ^ No8「車輌設計について」『運輸省文書・日本炭礦・昭和二十二年~昭和二十八年』
- ^ ハ3−5は1950年1月31日限り廃車No.12「日本炭礦○車輌廃止について」『運輸省文書・日本曹達他・昭和二十五年~昭和二十八年』
- ^ 「北九州の専用鉄道1950-1960見聞記」36-37頁
- ^ 国立公文書館所蔵の鉄道省文書・運輸省文書には客車関係の文書は小倉鉄道客車譲受使用(No.10「小倉鉄道所属客車譲受使用ノ件」『鉄道省文書・日本鉱業(元日本炭礦、日本化学工業、日産化学工業)・昭和九年~昭和二』)とハ6廃車届(No.3「車輌廃止について」『運輸省文書・日本炭礦・昭和二十二年~昭和二十八年』)しか見当たらない
- ^ 『鉄道統計資料. 昭和2年 第2編 建設 工務 工作 電氣 研究』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『鉄道統計資料. 昭和8年度 第2編 建設 工務 工作 電氣』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 高野鉄道(南海鉄道)は25→ろブ25→芸備鉄道フハ4→ハブ4→国鉄ハフ2681澤内一晃 「南海の二軸客車」 『鉄道ピクトリアル』 No.835
- ^ 元関西鉄道430(明治28-29年三田製作所製)『客車略図 上巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ No.10「小倉鉄道所属客車譲受使用ノ件」『鉄道省文書・日本鉱業(元日本炭礦、日本化学工業、日産化学工業)・昭和九年~昭和二十四年』
- ^ 『客車略図 下巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『客車略図 下巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献
- 内田宗治「石炭と筑豊の鉄道」『日本鉄道旅行地図帳 九州・沖縄』12号、16-17頁
- 北豊生「北九州ののぞき処」『鉄道ファン』No.26
- 高井薫平『小型蒸気機関車全記録 西日本編』講談社、2012年
- 谷口良忠「北九州の専用鉄道1950-1960見聞記」『レイル』No.16
- 奈良崎博保「九州地方の古典ロコを拾う」『鉄道ピクトリアル』No.129
- 日炭回顧録の会編『日炭回顧録』弦書房、2012年
- 『芦屋町誌』1972年
- 『水巻町誌』1962年
- 『水巻町誌 増補』2001年
- 『鉄道省文書・日本炭礦(元三好、大君鉱業)・大正十五年~昭和九年』(国立公文書館所蔵)
- 『鉄道省文書・日本鉱業(元日本炭礦、日本化学工業、日産化学工業)・昭和九年~昭和二十四年』(国立公文書館所蔵)
- 『運輸省文書・日本炭礦・昭和二十二年~昭和二十八年』(国立公文書館所蔵)
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