新界五大氏族新界五大氏族(新界五大族、新界五大家族、新界五大望族、新界五大宗族)とは、新界原居民の中で特に強大な5つの宗族、すなわち錦田鄧氏、新田文氏、上水廖氏、上水侯氏及び粉嶺彭氏を指す[1]。 いずれも宋代明代、すなわち清朝による遷界令以前に現在の香港新界に移住してきた漢族の氏族であり[2]、現在までに新界の様々な場所に発展・定着してきた。また、香港の標準的な広東語とは細部の異なる囲頭話を主要なコミュニケーション言語としている。5つの宗族は数百年の間にそれぞれの根拠地に囲村、祠堂、書室、廟宇等を建築し、また交通の要衝には墟市(市場)を設置することで、次第に有力氏族へと発展した。後に新界を租借したイギリスの香港政庁が新界の土地所有権を登記した際、この5つの宗族の名義になっている土地が頗る多いことを発見し、彼らを「五大族」(英語: The Five Great Clans)と呼ぶようになった。 錦田鄧氏新界鄧氏の祖籍は江西省吉水県であり、五族の中で最も早期に新界に移住した。人口や所有地も最多であり、新界五大家族の中でもトップである。先祖鄧漢黻の四世孫鄧符協は北宋初年に現在の元朗区錦田に入り[3]、現在に至るまでに鄧氏の子孫は10万人を超えている。鄧氏の五大房(家系)のうち、2房は今もなお新界に住んでいるが、その他の房は内地に戻っている。そのうち元禎房は元朗屏山[4]、元亮房は錦田に住み続けた。その後、元亮房は元朗の厦村、輞井、屯門の紫田村、粉嶺の龍躍頭、沙頭角の萊洞、大埔の大埔頭一帯へと更に分家し[5]、新界鄧氏の主要な一角となったほか、更には南宋の公主・趙氏(高宗の娘。高宗 (宋)#備考参照)を妻に迎えた[6][7]。鄧氏は北宋期に新界へ移った後、人口は増え、宗祠、書室を建てたほか、近隣地域には墟市を開いた。屏山市、錦田市、厦村市、元朗墟和大埔舊墟等の墟市は全て清代に鄧氏が開いたものである。新界の発展において、鄧氏の貢献は最大のものがある[8]。 新界鄧氏家系図︰
鄧氏に関する香港法定古蹟︰
新田文氏新田文氏の祖籍は江西省吉安県である。先祖の文天瑞は南宋の抗元英雄である文天祥の堂弟で、南宋末期に元兵を避けて東莞へ移り住んだ。その七世孫の文世歌が明朝永楽年間に元朗新田に移って立村したのが新田文氏の始まりであり、その人数は5000人を超え、仁寿囲、東鎮囲、石湖囲、蕃田村、永平村、安龍村、新龍村、青龍村、洲頭村の9つの村落に分布する。その他、文氏の一族は新田域内の米埔村、壆圍や、屏山の欖口村にも移り住んだ。新田文氏は全盛期には落馬洲一帯に4000万ft2の土地を擁しており[9]、新界西北部に強い影響力を持っている。 文氏に関する香港法定古蹟:
上水廖氏上水廖氏の原籍は福建省永定である。先祖廖仲傑は元末にはじめ屯門に住み、その後福田へ移った後、再び雙魚河へと居を移した[10][11]。廖仲傑の子自玉は上水郷の開祖である。上水郷一帯には元々簡姓の村民がいたが、伝説によれば廖氏はこの土地を気に入った後、妖怪になりすまして簡氏一族を追い出したという[12]。簡氏は松柏塱に移住させられ、廖氏は梧桐河畔の現在地に落ち着いたため、廖氏は現在でも村祭の中で、土地を譲ってくれた簡氏の恩に感謝する儀式を執り行っている[13]。現在、上水廖氏には三つの家系が存在しており、上水郷に囲内村、門口村、莆上村、大元村、中心村、上北村、下北村、興仁村及文閣村の9つの村落を構え、人数は5000人あまり[14]である。分家には近隣の華山村に移ったものと、沙田の牛皮沙村、樟木頭村といった烏渓沙一帯、例如子田囲といった屯門一帯に移ったものがある。上水一帯は元々より早期に建村していた侯氏が指導的立場にあり、侯氏が墟市を開いていた。しかるに清代になると廖氏が侯氏に代わって上水の指導的氏族となり、上水郷南方に石湖墟を建設した[15]。石湖墟は香港域内で最も新安県城の深圳墟に近い墟市であるため、重要な物資の集散地となり、また新界北部の重要な農産品市場ともなった。この市場は廖氏に巨万の富をもたらし、廖氏は最盛期には香港島の掃桿埔にまで土地を有することとなった。上水廖氏の教育に対する情熱は新界五大族中で特に突出しており、過去100年間で北区には3校の中学、3校の小学校と1校の幼稚園の設立に出資した。その中には、香港で2番目に面積の広い鳳渓第一中学がある。 廖氏に関する香港法定古蹟︰
上水侯氏侯氏の原籍は広東省番禺県で、その先祖侯五郎は北宋の進士であった。その六世孫侯卓峰が河上郷侯氏の始祖である[16]。侯卓峰には6人の子があり、そのうち前4房は河上郷に住み続けている。第五房の子孫は金銭、燕崗へ、第六房の子孫は丙崗へと移った。侯族は上水一帯に2000人近くおり、居住地は上水古洞に集中している。侯氏は上水で最も早期に興った大族で、かつて上水に隔圳墟と天岡墟の2つの墟市を建設していた。しかし清代になると勢力を失い、比較的遅くに梧桐河畔へと移住してきた廖氏に上水での指導的地位を奪われることになる。1899年、英軍が新界を接収した時には丙崗侯氏は近隣氏族と連合してこれに抵抗した。1908年、香港政庁と香港ゴルフクラブは侯氏を中心とした村民と交渉を開始し、金銭村と丙崗村の間に位置する侯氏の墓山一帯に粉嶺ゴルフ場を建設することで村民からの合意を得た。これにより、侯族の新界域内での地位は著しく高まった[8]。
侯氏に関する香港法定古蹟︰
粉嶺彭氏彭氏の原籍は江西省宜春県である。先祖彭延年は北宋の進士。彭桂の代にその妻子と共に粉嶺龍躍頭へ移ったが、元末には人口の少なさから移り住んできた鄧季琇一族からの抑圧を受けるようになり[18]、粉嶺楼一帯へ移り住み、龍躍頭は龍躍頭鄧氏の集住地へと変貌した[19]。人口が増大した結果、一族の一部は近隣の粉嶺囲へと移り立村し、正囲、北辺村、南辺村の3つの村落を形成した。このほか、一部は蕉径の彭屋、上水の掃管埔村や大埔の汀角村等へ定住した[20]。人数は約4600人[21]で、かつて清代には香港島の掃桿埔一帯に箒管莆村を建てていた記録も残る[22]。イギリスが新界を租借した後、彭氏の定住地は九広鉄路の傍に位置しており、また政庁が当地に粉嶺駅、沙頭角支線や沙頭角公路を建設したため、彭氏は急速に勢力を強めた。1940年代末、上水廖氏が壟断する石湖墟の取引価格が不公正であることを受け、彭氏は沙頭角、打鼓嶺、大埔一帯の村落と結び、粉嶺楼の東北に現代的な建築の聯和墟を建設した[23]。1970年代に政庁が粉嶺・上水ニュータウンを開発すると、その定住地がニュータウンの中心地に位置していたため、広大な土地を販売することで彭氏は急速に財産を築いた。 その他氏族新界各地にはこれら五大宗族以外にも、清朝またはそれ以前からの歴史を有する氏族が多く存在する[24]。
脚注
参考文献
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