文定王后
文定王后 尹氏(ぶんていおうこう いんし、ムンジョンワンフ ユンシ、1501年12月2日 - 1565年5月5日)は、李氏朝鮮第13代国王明宗の生母。李氏朝鮮第11代国王中宗の3人目の王妃。本貫は坡平尹氏。諡号は聖烈仁明文定王后。坡山府院君・靖平公尹之任と全城府夫人・李氏の娘。 国母として強い権力を持ったが、尹氏一族を中心に反対派を弾圧した他に親族を政府の要職に登用したことで国力を疲弊させた。 生涯1515年に章敬王后が産褥死すると、1517年に揀択、17歳で王妃に冊封された。章敬王后と世祖の正室であった貞熹王后は遠縁にあたる。彼女は世子(のちの仁宗)を保護する責任があったので、後日彼女の政治的立場が強化される名分になった。最初は血の繋がっていなかった世子を可愛がっていたが、1534年に慶源大君を産むと世子が邪魔になって暗殺を狙い始めた。 中宗晩年期から弟の尹元衡(小尹)と側近で尹元衡の妻鄭蘭貞らと共に朝政に介入し、1544年11月、中宗が没すると王大妃となり、1545年8月に継子の仁宗が没し、同月に慶源大君が12歳で即位して明宗となると大王大妃に転じ、後見として垂簾聴政を行い、優れた政治感覚と儒教的な見識を発揮して家臣たちを制圧した。その頃の朝鮮半島では凶作が続いて餓死者が多かったが、文定王后は何の対策も立てずに民を見殺しにした。その一方で、賄賂で政治を腐敗させた。垂簾聴政後も死ぬ間際まで朝政に介入し続けた。 仏教を篤く信じていたことから仏教に対する保護政策を図り、反仏教的な儒者から批判を受けた。 文定王后は特に普雨という僧侶を寵愛し、1548年に普雨を奉恩寺住持にし、科挙の僧科試験と度牒制を復活させた。奉恩寺住持になった普雨を正二品の兵曹判書(現・国防部長官に相当)に封じたことで臣下から反感を買った。 1565年5月5日、崩御。享年64歳。陵はソウル特別市蘆原区孔陵洞にある泰陵。 文定王后の死後、尹元衡と鄭蘭貞は失脚の末に服毒自殺を図り、普雨は流刑先の済州島で殺された。 家族
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