拓跋力微拓跋 力微(たくばつ りょくび、拼音:Tuòbá Lìwéi、174年 - 277年)は、鮮卑族拓跋部の大人。拓跋詰汾の子。子に拓跋沙漠汗・拓跋悉鹿・拓跋綽・拓跋禄官がいる。兄の拓跋匹孤(禿髪匹孤)は南涼の建国者禿髪烏孤の八世祖にあたる[1]。玄孫の拓跋珪が北魏を建国すると、始祖の廟号、神元皇帝の諡号を追贈された。『資治通鑑』では力微可汗と記されている。 生涯拓跋部は、力微の代から具体的な活動年代が判明する。 174年、拓跋詰汾の子として生まれた。生まれた時から聡明な子であったという。父の死後、後を継いで大人となった。年を経ると英雄豪傑の器を持つようになり、当時の人はその能力を測り知ることは出来なかった。 220年、西部から外敵の侵入で部族が離散したため、拓跋力微は没鹿回部の大人竇賓につき従った。後に、拓跋力微は竇賓と共に西の部族を攻めるが、敗走した。逃げる途中、竇賓は馬を失い徒歩で逃げていたが、拓跋力微は自分の乗っていた駿馬を彼に与え、竇賓はなんとか逃げることができた。落ち着いた後、竇賓は馬をくれた者に恩賞を与えようと思い、部下に探させたが、拓跋力微はこのことを黙り話さなかった。しばらくした後、竇賓は拓跋力微が助けてくれたと知り、大いに驚いた。彼に報いるため、国土の半分を与えようとしたが、拓跋力微は拒んだので、代わりに自ら寵愛していた娘を嫁がせた。竇賓はまだ彼に恩返しには足りないと思い、拓跋力微に望みを何度も尋ねた。彼は部族を引き連れて北に向かい、長河に拠点を構えることを望み、竇賓は恭しく認めた。 その後十年余りが過ぎ、拓跋力微は各地への教化を行い、その仁徳は広く行き渡るようになった。かつて離散してしまった部族は、みな彼の下に帰順した。 248年、竇賓は重篤に陥ると、2人の息子に拓跋力微に仕えるよう伝えた。しかし息子たちはこれに従わず、竇賓の死後、拓跋力微が葬礼に参加するのを利用し、彼を除こうと謀った。だがその謀略は漏れ、拓跋力微の耳に入った。拓跋力微は、彼らが従わないのが良くわかっていたので、先手を打って対処しようと動いた。まず、宮中に潜んでいる勇士に命じ、早朝に刀で竇賓の妻を殺させた。竇賓の子らがこれを知ると、急いで駆けつけて来た。隠れ潜んでいた勇士は機会に乗じて彼らを逮捕し、処刑した。これにより、竇賓が管轄していた全部落を併呑し、諸部大人は拓跋力微に心服した。これにより、彼の兵士は20万人を超えるようになった。 258年、拓跋力微は定襄郡の盛楽に移った。同年4月、天を祭ると、諸部大人はみな祭にやってきた。ただ、白部大人の観望のみが出席しなかった。そこで、拓跋力微は観望を征伐した。遠近の者はみな震えあがり、彼に心服した。 拓跋力微は諸部大人へ向けて「我が思うに、匈奴の蹋頓は財利を貪り、周辺各地から略奪を行った。ある程度の実益を得たが、それによって多くの仇を作ることとなり、庶民はさらに困窮した。これは長期的な策とは言えない」と言い、魏国に修好を深める事を決め、使者を送った。 261年、魏と和親を結んだ拓跋力微は、子の拓跋沙漠汗を魏に赴かせた。沙漠汗は、太子として洛陽に留まり、拓跋部と魏の融和に努めた。 265年、司馬炎は禅譲を受けて晋朝を樹立した。拓跋部との関係は依然として維持された。 267年、拓跋沙漠汗が晋より帰国した。 275年6月、拓跋力微は再び拓跋沙漠汗に命じ、献上品を持って再び晋に赴かせた。晋の衛瓘は拓跋部の勢力を削ぐため、拓跋沙漠汗を洛陽に留め、諸大人に賄賂を送って離間工作を行った。 277年、晋朝は拓跋沙漠汗を帰国させた。拓跋力微は大喜びし、各部の大人を派遣して出迎えさせた。だが、彼らは衛瓘の離間工作もあり、拓跋沙漠汗を陥れようとしていた。拓跋力微は、諸大人が戻ると「わが子が晋から帰ってきて、どう変わったかね」と尋ねた。すると諸大人は「太子は才芸に優れ、空に弓を引いて飛ぶ鳥を落とします。これは晋人の妖異の術であり、国を乱し民を害する兆しがあります」と述べ、拓跋沙漠汗に謀反の疑いをかけた。拓跋沙漠汗が長らく晋にいた間、拓跋力微は拓跋沙漠汗の弟達に寵愛を注ぐようになっていた。また、拓跋力微は既に百歳を超えており、正しい判断ができなかった。大人の話を聞くにつれ、徐々に心中に疑念を生じ「その者を受け入れることはできない。まさにこれを排除すべきだ」と述べた。これを聞いた諸大人はすぐに拓跋沙漠汗の下へ赴き、拓跋力微の命だと偽り沙漠汗を誅殺した。その後、拓跋力微はこのことをはなはだ悔んだという。 同年、拓跋力微は病気を患い、烏桓王の庫賢に軍を任せた。しかし、庫賢も衛瓘の賄賂を受け取っており、庫賢は大いに国をかき乱して部落を散り散りにしようとした。彼が庭で鉞斧を磨いていると、諸大人は何事か尋ねた。彼は「主上はあなた方の讒言を信じて太子を殺したことを心底恨んでおります。今、全ての大人の長男を捕らえて殺すよう命令を受けているので、その準備をしているのです」と答えた。諸大人は彼の言葉を信じ込み、驚いて離散してしまった。 まもなくして拓跋力微は死去した。享年104、58年間の統治だった。 逸話初め、拓跋詰汾は数万の騎兵を率いて山沢で狩りをしていた。すると突然、天から衣を纏った車が舞い降りて来た。中から1人の美しい婦人が現れ、多くの護衛を連れていた。拓跋詰汾は驚いて彼女へ何者か尋ねた。彼女は「私は天女です。あなたと婚姻を結ぶよう命を受けてきました」と言った。その夜、拓跋詰汾は彼女と床を共にした。明け方、彼女は「ちょうど来年の今、また同じ場所でお会いしましょう」と言い、風雨のように凄まじい速度で去っていった。1年後、拓跋詰汾は同じ場所に赴くと、やはり天女と再会した。天女は生まれたばかりの子を拓跋詰汾へ託し「これはあなたの子です。しっかりと教育し、立派な子に育てるのです。子孫は代を重ねて王となることでしょう」と言い、すぐに退散した。この子が拓跋力微であるという。当時の人たちは「詰汾には婦家(妻の家系)がなく、力微には舅家(母方の家系)がない」と歌謡や諺を作った。 宗室
参考文献脚注
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