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成瀬正二
伝記の記載を年譜形式のみとすることは
推奨されていません
。
人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。
(
2018年5月
)
成瀬正二(1925年)
成瀬 正二
(なるせ せいじ、
1893年
12月26日
-
1960年
1月29日
)は、
日本
の
工学者
・
海軍
軍人
。
海軍技術少将
正五位
勲四等
。
海軍航空技術廠
雷撃部長
[
1
]
。
経歴
1893年
-
神奈川県
横浜市
に生まれる。
第一高等学校
卒業。
1920年
-
東京帝国大学
工学部
造兵学科
卒業。
1920年 - 海軍
造兵
中尉
(
横須賀鎮守府
→
横須賀工廠
造兵部)
1922年
- 海軍造兵
大尉
(横須賀工廠造兵部部員→
呉工廠
水雷部部員→
艦政本部
造兵監督官)
1925年
~
1926年
-
造兵監督官
として、航空魚雷の技術調査のために
英国
出張
1927年
- 海軍造兵
少佐
(横須賀工廠造兵部部員→
連合艦隊
司令部附→艦政本部造兵監督官→横須賀鎮守府附)
1933年
- 海軍造兵
中佐
(横須賀鎮守府附→呉工廠魚雷実験部部員)
1938年
- 海軍造兵
大佐
(
海軍航空技術廠
兵器部部員)
1942年
- 海軍技術大佐(海軍航空技術廠兵器部部員→海軍航空技術廠
雷撃
部長)
1944年
- 海軍技術
少将
(海軍航空技術廠雷撃部長→
第一技術廠
雷撃部長)
[
2
]
1945年
- 終戦に伴い
予備役
。
海軍工廠
跡地への「東急横浜製作所(後の
東急車輛製造
)」等の開設に尽力した。
1952年
-
保安庁
技術研究所(後に
防衛庁
技術研究本部
となる)が発足、第五研究所に勤務し、水中武器に係る技術を伝承した。
位階
1933年(昭和8年)2月15日 -
正六位
[
3
]
1938年(昭和13年)4月1日 -
従五位
[
4
]
1943年(昭和18年)7月15日 -
正五位
[
5
]
賞罰
1935年(昭和10年)特別賞典(
賜杯
及び金参万円) -
九一式魚雷
の開発責任者として
[
6
]
研究内容
流体工学
雷撃機
から軍艦を攻撃する
航空魚雷
の飛行安定性(木製尾部安定板)と
姿勢制御
(加速度制御)に関する技術開発。
海面に投下した航空魚雷は沈降から素早く上昇に転じなければならなかった。そのために、空中および水中で
ローリング
を制御して上方向を保つ必要があり、それを世界に先駆けて実現した(詳細は
九一式魚雷
)。
逸話
海底が浅い
真珠湾攻撃
の際に使用された航空魚雷は全て成瀬が率いた研究グループによる設計である。
日本海軍において雷撃部長なる役職に就いたのは成瀬だけである。
親族
父
成瀬正恭
-
十五銀行
の
支配人
・
頭取
兄
成瀬正一
-
フランス文学者
・
九州大学
教授
[
7
]
弟 成瀬俊介 -
外交官
(臨時
公使
として
イラン
公使館
を開館)
[
8
]
[
9
]
妻 成瀬すみ -
陸軍
中将
中村雄次郎
の娘
参考文献
^
“
造兵科士官一覧
”.
2016年7月25日
閲覧。
^
「
海軍辭令公報、第1447號、昭和19年
」
アジア歴史資料センター
Ref.C13072097800
^
「
内閣海位第三二号
」
アジア歴史資料センター
Ref.A11114581200
^
「
人海位第二四六号
」
アジア歴史資料センター
Ref.A12090393000
^
「
海軍公報號外、昭和18年8月13日
」
アジア歴史資料センター
Ref.C12070433400
^
「
海秘人第四二号
」
アジア歴史資料センター
Ref.C05034044800
^
[1]
, 関口安義『成瀬正一の道程(II)──松方コレクションとのかかわり』](文教大学文学部「文学部紀要」第19-2号 2006-03
^
[2]
文官高等試験合格者一覧-文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)
^
[3]
在イラン日本国大使 日本人墓地墓参