忠房親王
源忠房(みなもとのただふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の皇族・公卿。順徳天皇の曾孫。正三位・源彦仁の子。官位は無品・弾正尹。 経歴初め、外伯父・二条兼基の猶子となる。大覚寺統の後二条朝の正安3年(1301年)元服と同時に、正五位下・左近衛少将に任ぜられると、乾元元年(1302年)一挙に従三位・左近衛中将に叙任されて公卿に列す。嘉元3年(1305年)正三位、徳治元年(1306年)権中納言に叙任されるなど、後二条朝では摂関家の子弟に準じた官歴を辿り急速に昇進を果たした。 延慶元年(1308年)7月に養父の二条兼基が出家、さらに8月に後二条天皇が没して持明院統の花園天皇が即位すると、翌延慶2年(1309年)2月に官職を辞する。正和5年(1316年)従二位に至る。 文保2年(1318年)後醍醐天皇が即位して皇位が再び大覚寺統に遷ると、翌文保3年(1319年)忠房は後宇多上皇の猶子となり親王宣下を受けて、無品ながら弾正尹に任ぜられた。 元亨4年(1324年) 7月29日に後宇多法皇崩御の五七日御仏事に際して出家。貞和3年(1347年)7月薨去。享年63か。 親王宣下について臣籍に生まれながら親王宣下を受けるが、これが平成以降の時代の皇位継承問題において「臣籍に産まれた人物が皇籍についた先例」として旧皇族復帰の根拠として注目されている。 “天皇の猶子”とは“皇子に準じた扱い”とする事だが、皇室について用いた始まりは『職原鈔』に忠房親王が後宇多院の猶子となす旨、記された事に始まるという。尤も言葉としては漢語であり『礼記』に見える。 官歴『公卿補任』による。
系譜四辻宮尊雅王及びその子である四辻善成について、実は忠房親王の皇子であるとの説も存在する。 脚注参考文献 |