志道広良
志道 広良(しじ ひろよし)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。通称は太郎三郎[1]、受領名は上野介[1]、大蔵少輔[1]。安芸国志道城主。父は志道元良[1]。子に志道大蔵少輔、守熊(実相寺住職)、口羽通良[注釈 1]、志道就良、坂元貞、志道元信、志道元親など。 生涯応仁元年(1467年)、毛利氏の庶家で代々の毛利氏当主を補佐していた坂氏の一門で、安芸国高田郡志道村[注釈 2]に居住して「志道」の苗字を称した志道元良の嫡男として生まれる[5]。 明応9年(1500年)7月14日に父・元良が死去し、その後を継ぐ[1]。同年3月に毛利氏の家督を相続した毛利興元の代から毛利家執政を務めていたが、興元の弟・元就の器量を早くから見抜き、親交を結んでいた。永正10年(1513年)には、17歳の元就が47歳の広良に差し出した起請文では、両者がよく協力しつつ、主君である興元に忠節を尽くすことを誓っている[5]。広良が元就を並の人物では無いと見抜き[6]、年若い元就に起請文の提出を求めて一人前の武将に育て上げていったとされる[7]。 毛利興元と嫡子の毛利幸松丸が夭折した後、毛利元就とその弟・相合元綱との間で争いが起きると、元就を支持して、他の14人の宿老とともに署名した起請文を提出[注釈 3][5]し、かつ足利将軍家の同意もいち早く取り付けた。その後、元綱を擁立した宿老の坂広秀、渡辺勝の謀反はあったものの、元就に無事家督を相続させることに成功。本家筋の坂広秀が相合元綱を擁して謀叛した際には、元就方として鎮定する側にまわったため、乱の後に次男の志道広昌に途絶えた坂氏の名跡を継がせて、本家を継承せしめた。以後の広良は元就の軍師的な役割を務め、さらにはその子・隆元の後見役を務め活躍する。 享禄5年(1532年)7月13日の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では2番目に「志道上野介広良」と署名している[注釈 4]。 毛利元就が大内氏を滅ぼした防長経略が終わってすぐの弘治3年(1557年)7月1日に91歳の長寿で死去[5]。嫡男の大蔵少輔には天文8年(1539年)9月13日に先立たれていたため、嫡孫(大蔵少輔の子)の志道元保が跡を継いだ。 逸話
脚注注釈
出典参考文献
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