志磨神社
志磨神社(しまじんじゃ)は、和歌山県和歌山市中之島にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。 伊達神社(和歌山市園部)、静火神社(和歌山市和田、竈山神社摂社)とともに「紀三所社(きのさんしょしゃ)」と称される[1]。 祭神祭神は次の2柱[2]。
別説として、『紀伊続風土記』では「紀三所社」が伊太祁曽三神(五十猛命・大屋都比売命・都麻都比売命)を分祀するとし、志磨神社祭神を大屋都比売命に推定する[1]。ただし志磨神社は紀の川の川中島に位置することから、立地の観点からは中津島姫命が妥当とされる[4]。 また『住吉大社神代記』では、住吉大社摂社の船玉神社が紀氏の神であり「志麻神・静火神・伊達神」の本社であるとしている[4]。 歴史当社は、元和年間(1615年-1624年)に式内社「志磨神社」に比定され改称したものである[4]。現在は「中之島」の地名が表すように紀の川三角州の島に位置するが、社名「しま」がこの川中島を指すといわれる[4]。比定以前の当社は「九頭明神(国津明神)」を称し、元和当時には島内に当社含め小祠6社があったが、その中でも最も社地に勝れていた九頭明神が選ばれたという[4]。 概史文献では、古くは『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒に神戸として「島神 七戸」の記載がある[1]。神戸の存在は、『和名類聚抄』名草郡の「島神戸」の記載にも見える[1][注 1]。国史では「志摩神」として、いずれも伊達神・静火神とともに承和11年(844年)に正五位下、嘉祥3年(850年)に従四位下、貞観元年(859年)に正四位下、貞観17年(875年)に従三位の神階昇叙の記事が記載されている[1]。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「志磨神社 名神大」と記載され名神大社に列しているほか、『紀伊国神名帳』では「正一位 志摩大神」と記載されている[1]。 また、志磨神社は伊達神社(和歌山市園部)、静火神社(和歌山市和田)とともに「紀三所社(きのさんしょしゃ)」と称されたとされる[1]。「紀三所社」の記載は、永承3年(1048年)の収納米帳を初めとして、『中右記』天仁2年(1109年)条、『梁塵秘抄』四句神歌等に見える[1]。『住吉大社神代記』では紀三所社の由来について、神功皇后が三韓征伐に用いた船3艘を武内宿禰に祀らせたことによるとする[1]。 以上の文献上の「志磨神社」はその後所在不明となっていたが、元和年間(1615年-1624年)に当時「九頭(国津)明神」と称していた当社に比定された[4]。『紀伊続風土記』によれば、当社は慶長年間(1596年-1615年)以前は社領として田畑5反を有していたが検地に伴い没収、その後紀州徳川家によって再興されたという[1]。 明治維新後、昭和17年(1942年)に近代社格制度において県社に昇格している[3]。 神階境内境内には応永6年(1399年)の銘を持つ石燈籠が建てられている[1]。
摂末社
祭事主な祭事は次の通り[5]。
文化財和歌山県指定文化財
現地情報所在地 交通アクセス 周辺
脚注注釈
出典 参考文献
外部リンク |