彦坂尚嘉彦坂 尚嘉(ひこさか なおよし、1946年(昭和21年)6月26日 - )は、日本の現代アーティスト。詩人、ノイズ音楽家。 元立教大学大学院特任教授。独自に開発した言語判定法を駆使して、芸術分析を展開する芸術分析家。芸術分析の領域は、美術、音楽、文学、味覚、人相に及ぶ多義性がある。日本ラカン協会会員。有限会社気体分子ギャラリー代表取締役社長。ネットアートショップ「きたいぶんしギャラリー3000」運営。 人物彦坂尚嘉は、1946年(昭和21年)6月26日、私生児として生まれた。戸籍上の母は、彦坂静。しかし静は実の祖母で、実母は戸籍上の姉であった和子であった[1]。幼い頃、腸結核に罹患して、小学校1年・2年は学校には半分ほどしか出席していない。中学2年には肋膜炎と、腸結核、そして慢性盲腸を併発して生死をさまよって1年間入院。そのために世田谷区立富士中学校を1年休学して、一年遅れの学校生活を送る。高校3年で肋膜炎が再発し、高校卒業後に、関東中央病院に1年間入院して、肋骨を半分切る手術をする。1年間の浪人中は病院生活であったが、翌年多摩美術大学油彩科に入学[1]。 小学校一年から、光風会・日展系の画家:清原啓一(1927〜2008年、日本芸術院会員・日展常務理事)が家庭教師になり、以後1966年の多摩美大学入学の直前まで、油絵の指導を受ける[1]。中学生から東京国立博物館に通う様になり、国宝・重要文化財の作品を眼で、暗記する。中学2年生の一年間の入院生活で、講談社の『世界美術体系』(全28巻)と『日本近代絵画全集』(全24巻)を購入する[1]。 多摩美術大学に入学し、斎藤義重の存在を知って、神奈川県立近代美術館まで見に行く。1969年多摩美術大学が社会党系の社青同解放派の学生によってバリケードが築かれ、支援を要請されて参加する。学内で開かれた造型作家同盟展で、床を使ったフロアイベントと、木の支持体を使ったウッドペインティングを制作して、アーティストとして出発した。同年、宮本隆司、石内都、刀根康尚、山中信夫、堀浩哉らと美術家共闘会議(美共闘 BIKYOTO)の結成に参加する[1]。 1969年には、青山デザインスクールの講師で現代音楽家の刀根康尚と知り合い、現象学研究会を結成して、エトムント・フッサールの著作の読書会を始める。この刀根康尚とともに1971年には、『美術手帖』の編集長であった福住治夫(高島平吾)の協力で、1960年代美術の総括を企画して、8ヶ月間の調査批評活動を展開して、『年表/現代美術の50年』400頁を編纂する[1]。 1972年に第一次美共闘レボリューション委員会を組織して、美術館・画廊を使わない美術展を組織する。さらに1974年に、第2次美共闘レボリューション委員会をつくり、一年間の作品の制作発表の中止という現象学的還元(エポケー)を実践する活動を組織した[1]。 略歴
パブリックコレクション豊田市美術館、千葉市美術館、国立国際美術館、東京都現代美術館、富山県立近代美術館、世田谷美術館、北海道立旭川美術館、広島市現代美術館、高松市美術館、高知県立美術館、何必館・京都現代美術館、岐阜県美術館、神奈川県立近代美術館、町田市立国際版画美術館、和歌山県立近代美術館、いわき市立美術館、ソフトマシーン美術館、オーストラリア国立クイーンズランド・アートギャラリー、ゲッティ・リサーチ・インスティテュート、ヒューストン美術館ライブラリー、日立市新都市広場、アクトシティ浜松・コンサートホール、ラフレさいたま(旧郵政省簡易保険会館)、立川ホテル、ホテル西洋、シュルンベルジ相模原工場、伏見樹脂工場、専修大学、M+(香港) 受賞歴
主な著書単著
版画集
共著
作品カタログ
脚注
外部リンク
|