当山 弘道(とうやま ひろみち、1895年〈明治28年〉3月18日 - 1969年〈昭和44年〉2月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
東京府出身。陸軍士官学校第28期、陸軍大学校第40期卒業。米国駐在を経て、1926年(大正15年)3月11日、陸軍歩兵大尉に進級し[3]、3月29日に歩兵第1連隊附となり[3]、世田谷中学校に配属された[3]。1928年(昭和3年)11月に歩兵第1連隊中隊長に転じ[4]、1930年(昭和5年)3月に歩兵第1連隊附参謀本部附勤務に移った[5]。同年12月に参謀本部部員となり[6]、1931年(昭和6年)8月に陸軍歩兵少佐に進級した[6]。1932年(昭和7年)4月に陸軍歩兵学校教導隊附兼教官に転じ[7]、1933年(昭和8年)8月に戦車第2連隊附(第1師団)[10]、1934年(昭和9年)4月に歩兵第1連隊附と歴任した[11]。
1936年(昭和11年)3月7日に戦車第2連隊附となり[12]、8月1日に陸軍歩兵中佐に進級し[12]、12月1日には陸軍戦車学校教官に転じた。1937年(昭和12年)8月に留守第1師団参謀長(東部防衛司令部)に転じ、1938年(昭和13年)7月に陸軍歩兵大佐に進級、1939年(昭和14年)3月に第32師団参謀長(第12軍)に就任して日中戦争に出動。魯南剿共作戦などに参加した。1940年(昭和15年)12月に公主嶺陸軍戦車学校教官に転じた。
1942年(昭和17年)8月1日、陸軍少将進級と同時に戦車第1旅団長(関東軍・機甲軍・戦車第1師団)に着任し、1943年(昭和18年)6月に千葉陸軍戦車学校長に転じた。1944年(昭和19年)7月8日に戦車第4師団司令部附(防衛総司令部)となり、11月22日に教導戦車旅団長(関東軍)に着任した。1945年(昭和20年)4月16日に独立戦車第8旅団長(第1総軍・第13方面軍)に就任し、4月30日に陸軍中将に進級した。同旅団は静岡県三ケ日に布陣し、本土決戦に備えていた。
脚注
参考文献