広島高等工業学校
広島高等工業学校(ひろしまこうとうこうぎょうがっこう)は、1920年(大正9年)1月、広島市に設立された官立の旧制専門学校。略称は「広島高工」。 この記事は改称後の広島工業専門学校(広島工専)についての記述も含む。 概要
沿革
広島高等工業学校時代第一次世界大戦中の好景気を受けて、大工業の存在しない広島県では工業振興のための工学教育を求める声が地元財界の間で拡がり、当時、西日本では大阪と熊本の2校しか設置されていなかった高等工業学校(高工)を広島に誘致しようとする運動が起こった。誘致運動は広島県の強力な財政的バックアップによって展開され、その結果1917年(大正6年)の第39回特別帝国議会において横浜・広島・金沢の3市に高工を増設することが決定され、1920年1月17日の文部科学省直轄書学校官制の改正(勅令第15号)により、広島高等工業学校が設立(官制公布)された。設立にさいし初代校長には川口虎雄が就任し、機械工学科・電気工学科・応用化学科の3学科が設置された。川口校長は地元経済と密接な関係を保つため、学校開放主義を標榜し工業講話会や展覧会の一般公開などの行事を積極的に開催し、また地元業界のための技術改良や調査研究がすすめられ、1929年(昭和4年)には地元の醸造業界の要望に応えるかたちで醸造学科が新設された。 1937年以降、日中戦争の全面化により戦時体制が進行すると軍需産業のための教育・研究が重視されるようになり、この年度から広島高工は生徒募集定員が増加することとなり、1939年3月には工作機械学科が設置された。さらに広島市を含む重要工業都市に所在する高工6校に夜間部の設置が義務づけられると、臨時補修科(夜間部 / 1942年1月)、第二部機械工学科・応用化学科(同年3月)、第二部電気工学科(1943年1月)が次々に設置された。また工業教員の需要の高まりを背景に1939年5月には附設臨時工業教員養成所(のち附設工業教員養成所)が設置された。1942年度からは修業年限が3ヵ月短縮されることとなったが、他の高等教育機関の徴兵猶予が廃止されても高工の猶予措置は引き続き継続した。 広島工業専門学校時代第二次世界大戦中の専門学校令改正に伴い、広島高工は広島工業専門学校と改称され、学科も第一部は機械科・電気科・化学工業科・醗酵工学科の4学科、第二部は機械科・化学工業科・電気科の3学科に再編された。敗戦間近の1945年4月には造船科が新設されたが、この時期になると生徒の大半は各地の軍需工場に勤労動員されるようになり、学校としてはほとんど機能を停止するに至った。同年8月6日の原爆投下により、市内中心部に位置していた広島工専は施設・教職員・生徒倶に大きな被害を受け、その後敗戦を経てしばらくの間郊外への疎開をよぎなくされた。本校復興後援会(1946年結成)の活動により広島工専が原校地への復帰を果たしたのは1947年1月である。 1948年、広島文理科大学を中心に「広島総合大学」を設立する運動が本格化すると、工専内部にもこれに呼応して「広島総合大学工学部設立委員会」が発足した。そして翌1949年5月、国立学校設置法の公布によって広島大学が発足すると広島工専は包括され、広島大学広島工業専門学校と改称、広島市立工業専門学校とともに同大学工学部の構成母体をなした。1951年3月には工専および附設工業教員養成所の最後の卒業式が挙行され、同月末日附設工業教員養成所とともに廃止された(なお、附設工業教員養成所は新制広島大学工学部で工業教員養成課程として復活した)。 年表
歴代校長広島高等工業学校長
広島工業専門学校長 著名な卒業者
校地の変遷と継承千田町校地の形成設立時の校地はもともと旧広島藩主の浅野氏の所有地で、千田町(現在の広島市中区千田町三丁目)の一角にあり、西隣には県立広島工業学校(現・県立広島工業高等学校)が立地していた[3]。また近隣には、のち広島大学本部キャンパスとなった広島高等師範学校・広島文理科大学の校地も所在していた。千田町校地は基本的には高工(工専)の新制大学移行時まで維持されたが、原爆被災による校舎倒壊の結果、一時使用不能となったため、広島工専は1945年10月から呉市広町の第11海軍航空厰工員養成所の建物を仮校舎として開講、1947年1月になって千田町の旧校舎に復帰した。 新制移行から現在までその後、千田町校地は広島大学工学部に継承されて千田キャンパスとなり、東広島キャンパスへの統合移転まで使用された[4]。1982年、広大全学部のスタートを切って工学部が東広島市に移転したが、その際千田キャンパス跡地は更地にされ、その後1988年以降千田公園として整備されて現在に至っている[5]。このため旧高工・工専時代の建造物はほとんど現存していないが、工専時代から新制工学部に至るまで使用された正門門柱(被爆建造物)は、学部のシンボルとして移転先の学部本館正面前に移築され現在に至っている[6]。また、当時の正門近くに位置する広島市総合健康センター(健康科学館)の正面前には、かつての高工・工専の正門前の石垣の被爆石を積み上げたものを基礎とした「広島高等工業学校・広島大学工学部創立75周年記念碑」が広島工業会(当時)によって建立(1995年)されている。 醸造学科実験室醸造学科実験室は、高工時代の1929年頃に竣工したRC造2階建の建造物である。大部分が木造2階建であった同校校舎のなかでは数少ない非木造の建造物であり、原爆被災時には爆心地から2.06㎞の位置にあって爆風によって屋根が大破したことを除いて建物自体に大きな損壊はなく、火災も発生しなかった。工専の疎開先からの復帰と授業再開を経て、新制広島大学の発足後は同大学の工学部発酵工学科の本館として使用された。しかし詳細な時期は不明であるが1968年頃解体・撤去された[7]。 原爆による被害
1945年(昭和20年)8月6日の原爆被災時、広島工専校舎は爆心地より2.1kmに位置し、工専では授業・勤務を開始した直後だった。原爆炸裂による爆風で、ほとんどが木造2階建であった校舎は火災は出さなかったものの倒壊・大破し校内の生徒・職員などから多くの死傷者を出した。死亡者数は即死または数カ月以内に死亡した者だけで教職員が14名、三年生が23名、二年生が34名、一年生が31名で、計102名である[8]。 新制広島大学移行後の1972年3月には広島大学原爆死没者慰霊行事委員会が発足して工専を含む広島大の旧制包括校の原爆犠牲者の慰霊事業が行われることとなり、その主要事業として1974年8月「広島大学原爆死没者追悼之碑」が建立された。この碑は広大本部が東広島キャンパスに移転したのちも東千田キャンパス内に残され、大学関係者によって毎年慰霊式典が行われている。 脚注
関連書籍
関連項目外部リンク
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