平親国
平 親国(たいら の ちかくに、旧字体:平󠄁 親國)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。桓武平氏高棟流、中納言・平親宗の長男。官位は従三位・非参議。 経歴嘉応2年12月(1171年2月)従五位下・伊賀守に叙任されるが、ほどなくして阿波守に遷任。安元2年12月(1177年1月)従五位上に叙せられ、安元3年(1177年)には加賀守に任ぜられた。 治承3年(1179年)に平清盛による治承三年の政変により後白河上皇の側近である父と共に解官される。養和元年11月(1182年1月)治部大輔に復任し、寿永元年12月(1183年1月)勘解由次官に任ぜられた。寿永2年(1183年)正五位下に叙せられ、文治6年(1190年)には五位蔵人に補任。建久6年(1195年)権右中弁次いで右中弁に進み、建久9年(1198年)に皇后宮大進を兼任して範子内親王に仕える。また、同年左少弁に転じた。 建仁元年(1201年)従四位下・右中弁に叙任。建仁2年(1202年)には修理右宮城使を兼ね、建仁3年(1203年)従四位上に昇叙。建仁4年(1204年)に正四位下に叙せられて、皇后宮亮を転任。さらには蔵人頭に補任された。建永元年(1206年)10月、従三位に叙せられて公卿に列すが、承元2年(1208年)1月7日薨去。享年44。散位であることを憂えて心肝を砕いたあまり、遂には死に至ったという[1]。 官歴※以下、『公卿補任』の記載に従う。
系譜脚注参考文献
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