平田昇
平田 昇(ひらた のぼる、1885年(明治18年)12月1日 - 1958年(昭和33年)5月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 経歴1885年12月1日、東京で官僚平田東助の二男として生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、1906年11月、海軍兵学校(34期)を卒業、少尉候補生となる。1907年12月、海軍少尉任官。1912年12月、海軍水雷学校高等科を卒業。1915年12月13日、霧島分隊長に就任。1917年9月15日、海兵教官に就任。1918年12月1日、少尉に昇進し、海軍大学校甲種18期に入学。1920年11月、海大卒業。12月1日、第1艦隊参謀に就任。 1922年12月1日、中尉に昇進し、山階宮武彦王付武官に就任。1924年12月1日、「金剛」副長に就任。1925年12月1日、海軍省教育局第2課局員に就任。1927年12月、「韓崎」艦長に就任。1930年12月1日、「那智」艦長に就任。1933年11月、海軍少将に進級。1935年6月5日、侍従武官に就任。1937年12月、海軍中将に昇進。1939年11月15日、佐世保鎮守府司令長官に就任。1940年11月15日、第6艦隊司令長官に就任。 1941年7月31日、南遣艦隊司令長官に就任。太平洋戦争で予定されていた南方作戦の図上演習では、比島・蘭印方面の作戦を第二艦隊司令長官・近藤信竹中将、マレー方面は南遣艦隊司令長官・平田中将が指揮した際、作戦中しばしば両者が作戦協定を行うなど不便があったため、南方作戦を一指揮系統とすべきであるとの意見が出たが、近藤より先任の平田中将は南遣艦隊司令長官であり、南方作戦の最高指揮官となるには不都合な点が多かった。後に近藤より後任の小沢治三郎中将が平田と交代したため、近藤中将が南方作戦全部隊を指揮する指揮系統に改められた[1]。 1941年10月18日、横須賀鎮守府司令長官に就任。12月、太平洋戦争勃発。1942年11月10日、軍事参議官に就任。1943年3月、予備役に編入。その後、帝国在郷軍人会副会長を勤めた。 1945年8月、終戦。平田は「開戦のときも終戦のときと同様におやり頂けたら宜しかった」とポツリと述べ、その言葉を聞いた昭和天皇は「平田は日本の憲法を知らんよ」と述べたという。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]。 1949年(昭和24年)5月24日、昭和天皇が佐世保市に行幸(昭和天皇の戦後巡幸)した際には、御泊所の山水楼を訪問して天皇と歓談した記録が残る[3] 1958年(昭和33年)5月19日、死去。 親族栄典出典
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