平岩基親平岩 基親(ひらいわ もとちか、生没年不詳)は、戦国時代の武将。通称矢之助[1]。 略歴弘治2年(1556年)松平義春隊に属し日近城の奥平貞直を攻めるも義春が討死し、退却の途中平岩元重と共に敵を退け、戦死した義春の屍を負って帰ったという [2]。 永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでは味方の敗北を知らされた松平元康がその真偽を確かめるために平岩元重、平岩基親、服部久左衛門を派遣した[1][3]。 参考文献
脚注外部リンク |
平岩基親平岩 基親(ひらいわ もとちか、生没年不詳)は、戦国時代の武将。通称矢之助[1]。 略歴弘治2年(1556年)松平義春隊に属し日近城の奥平貞直を攻めるも義春が討死し、退却の途中平岩元重と共に敵を退け、戦死した義春の屍を負って帰ったという [2]。 永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでは味方の敗北を知らされた松平元康がその真偽を確かめるために平岩元重、平岩基親、服部久左衛門を派遣した[1][3]。 参考文献
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