常田荘常田荘(ときだのしょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市)にあった荘園。現在の上田市街地一帯にあたる。 歴史安元2年(1176年)の「八条院目録」が初出であり(『山科家故書』)、『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年4月3日)条に後白河法皇から源頼朝に示された「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」にも見える。藤原経光の『民経記』寛喜3年(1231年)条では、藤原信実が領家となっており、承久2年(1220年)には、焼失した内裏の修繕費を割り当てられたとする記述がある。嘉元4年(1306年)には後宇多上皇の院宣により、昭慶門院に伝領されている。また長享2年(1488年)、永正3年(1506年)には諏訪大社下社春宮の造営役を勤仕している。 応仁年間の頃に海野氏が進出、戦国時代以降は武田氏の支配地となり、荘園は解体され、国衆領の一つである「海野領」の一部として纏められた[1]。 その後、真田氏が上田城とその城下町を建設する際に「城下囲」に指定された。 脚注参考文献 |