市原義夫
市原 義夫(いちはら よしお、1907年8月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元映写技師である[1][2][3]。本名は市原 義一(いちはら よしかず)[1][2]。市原 義雄と表記に揺れがある。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である[1][2]。 来歴・人物1907年(明治40年)8月15日、京都府京都市上京区千本通東入に生まれる[1][2]。2000年(平成12年)4月1日に発行された『日本映画興亡史 マキノ一家』(ワイズ出版)には、生年・出生地は不詳としている[3]。 常設館の映写技師から俳優を志し、1925年(大正14年)6月、マキノ・プロダクションに入社[1][2][3]。翌々1927年(昭和2年)12月31日に公開されたマキノ省三監督映画『合点勘次』で映画デビューを果たす[1][2]。入社当初はあまり役に恵まれずにいたが、翌1928年(昭和3年)2月1日に杉狂児(1903年 - 1975年)が退社した後から、杉に次ぐ三枚目俳優として活躍するようになり、以後、同年5月5日に公開された二川文太郎監督映画『新版大岡政談 前篇』など、多数の時代劇、現代劇に出演した[1][2][3]。 1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(映画世界社)などによれば、京都府葛野郡花園村谷口斎宮町(現在の京都市右京区龍安寺斎宮町)、後に京都府上京区五辻通六軒町南入ル末広町に住み、趣味はビリヤードで、嗜好物はチョコレート、尊敬する俳優はジョン・ギルバート(1897年 - 1936年)とルネ・アドレー(1898年 - 1933年)であるという旨の記述がなされている[1][2][3]。 1931年(昭和6年)のマキノ・プロダクション解散後は、トキワ映画社を経て、同社の監督であった金森萬象(1893年 - 1982年)が設立した協立映画プロダクションに参加[3]。しかし、翌1932年(昭和7年)5月1日に公開された金森萬象監督映画『猿飛漫遊記 前後篇』以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明である[3]。トーキー作品への出演は1作もなく、出演作品はすべてサイレント映画であった。没年不詳。市原の来歴について記載されている資料はほとんど存在しない。 出演作品マキノ・プロダクション御室撮影所全て製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、全てサイレント映画である。
トキワ映画社協立映画プロダクション製作・配給は「協立映画プロダクション」、サイレント映画である。
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