巨勢麻呂
巨勢 麻呂(こせ の まろ)は、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての公卿。小徳・巨勢大海の孫で、京職大夫・巨勢紫檀の子。官位は従三位・中納言。 経歴持統天皇7年(693年)直広肆に叙せられる。大宝元年(701年)の大宝令施行に伴う位階制度の制定を通じて従四位下に叙せられ、慶雲2年(705年)民部卿に任じられる。 元明朝に入ると、和銅元年(708年)3月に左大弁に任じられ、同年7月には二品・穂積親王や左大臣・石上麻呂らと共に天皇に召されて、百寮に率先して官事に努めていることを賞され、麻呂は正四位下に昇叙された[1]。和銅2年(709年)陸奥・越後両国の蝦夷征討のため、麻呂が陸奥鎮東将軍に、佐伯石湯が征越後蝦夷将軍に任ぜられる[2]。その後、和銅4年(711年)正四位上、和銅6年(713年)従三位、霊亀元年(715年)中納言と元明朝で順調に昇進を果たした。 元正朝の霊亀2年(716年)出羽国において官人や人民が少なく狄徒(出羽国の蝦夷)も未だ十分に従っていない一方で、土地が肥沃で田野が広大であることから、近国の人民を出羽に移住させて凶暴な狄徒を教え諭すと共に、土地の利益を確保すべき旨を建言する。これに基づき朝廷では、陸奥国の置賜・最上の2郡と、信濃・上野・越前・越後の4国の百姓それぞれ100戸を出羽国に移した[3]。 霊亀3年(717年)1月18日薨去。最終官位は中納言従三位。 官歴『六国史』による。
脚注参考文献 |