工藤八之助
12代[1] 工藤 八之助(くどう はちのすけ、1871年3月23日(明治4年2月3日[1][注 1])- 1928年(昭和3年)8月21日[2])は、明治から昭和初期の地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名・松吉[3]、旧名・郁之助[4]。 経歴出羽国村山郡米沢村(山形県西村山郡高松村を経て現寒河江市米沢)で、素封家・先代工藤八之助(五八[1][4])の長男として生まれる[3][5]。格知学舎で国史、国文、漢学などを学んだ[5]。1900年(明治33年)家督を相続し12代八之助を襲名した[1][4]。 1900年以降、高松村会議員、村山郡会議員、同議長、村山郡農会長、高松村長、山形県会議員、同参事会員などを務めた[2][3][5]。 実業界では、羽前製糸社長、庄内電気社長などを務めた[5][2]。左沢線の誘致に尽力し、高松駅の設置に当たり多額の寄付を行った[3]。 また、県立寒河江中学校[注 2](現山形県立寒河江高等学校)、同谷地高等女学校(現山形県立谷地高等学校)などの校友会会長、父兄会会長を務め、また多額の寄付を行った[5]。 1925年(大正14年)貴族院多額納税者議員に選出され、同年9月29日に就任[2][3][6]。立憲政友会山形県会長となる[3]。1928年8月、在任中に死去した[2][7]。 親族脚注注釈出典参考文献
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