川崎定安川崎 定安(かわさき さだやす、 宝暦8年(1758年)[1] - 文化10年3月4日(1813年4月4日))は、江戸幕府の旗本、代官。通称・平右衛門、幼名・辰之助。川崎定孝の孫で、川崎定盈の子。妻は、徳川家治の側室蓮光院の侍女某氏の養女[2][3]。 略歴安永2年(1773年)3月25日、徳川家治に初めて拝謁する。時に16歳[2][3]。 同7年(1778年)2月13日より父・定盈の仕事の見習を務める。7月8日に家督を継いで代官となり、石見国銀山の支配(第37代目代官)を兼ねる。この時、俸禄150俵を賜わり、翌日8日に名を平右衛門に改める[2][3][4][5][6]。 同9年(1780年)正月28日、居宅を火事で焼失したことで出仕をはばかり謹慎するが、2月5日に許される[2][3]。 天明7年(1787年)10月晦日、銀山支配から離れる[2][4][5][7]。石見の支配を離れた後、亡くなるまで代官として支配地を五ヵ所にわたって転任する[5]。 同8年(1788年)2月5日、税の延滞を理由に出仕を止められた上、預けられた御料所のうち2万石を減ぜられる。同年3月26日に許される[2]。 寛政5年(1793年)12月27日、支配地が1万石増加、甲州に場所替となる[6]。 文化元年(1804年)8月23日、場所替えで支配地が1万石増加となる[4][6]。 文化10年(1813年)3月4日、病死。江戸の四谷にある長善寺に葬られる。戒名は「霊耀院殿聖山義賢居士」[3][6]。 脚注
参考文献
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