川勝広英
川勝 広英(かわかつ ひろひで)は、江戸時代前期から中期の旗本。知氏系重氏流川勝家の4代当主。 生涯寛文5年(1665年)、川勝隆房の三男として江戸に生まれ、後に川勝広宣の末期養子となった。元禄3年(1690年)8月6日、義父広宣の死去により、その家督(下野内300石、蔵米400俵)を継ぎ、同年10月23日に初めて将軍徳川綱吉に謁見した。 元禄10年(1697年)7月26日、蔵米を改めて、常陸国新治郡、筑波郡、河内郡内において400石を給わり、全てで下野・常陸内700石を知行した[1]。元禄11年(1698年)3月19日、書院番に列し、元禄14年(1701年)5月26日に桐間番に移り、同年8月7日に書院番に戻った。 享保18年(1733年)7月22日、69歳で没した。家督は婿養子の広達が継いだ。 脚注参考文献
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