島徳蔵島 徳蔵(しま とくぞう、1875年(明治8年)4月20日[1] - 1938年(昭和13年)11月3日[2])は、日本の実業家、相場師。日本揮発油会長[3][4]。族籍は大阪府平民[5][6][7]。「北浜の怪傑」、「北浜の島徳」などと呼ばれた。 経歴米穀商・島徳治郎の長男として大阪で生まれた[8]。学問を深くは修めず[9]、学校はいい加減の所で切りあげた[10]。株式取引所仲買人となり[2]、父のもとで仲買の修業を積んだ[11]。青年時代から繻子紐の前掛をかけて株式店頭に「二買い三遣り」の手を振った[10]。 1900年、今村清之助を相手に関西鉄道の買い占め戦をやった[11]。1903年、独立して仲買店を開業した[11]。日露戦争景気で巨利を博した[11]。鉱業を営む[5]。銅山経営を開始して一時は鉱山師となり、後年これを久原家に譲渡し、暫くは世外の身となり悠々自適、機会の到来を待った[9]。1916年、大阪株式取引所理事長に就任した[11]。同年家督を相続した[6]。1927年、阪神電鉄社長就任。 日本揮発油会長、豊国火災保険、阪神電気鉄道、日魯漁業各社長、上海取引所所長、大阪株式取引所、天津取引所、漢口取引所各理事長[6]、日本信託銀行、豊国火災保険、朝鮮煙草、大阪電灯、関西信託、門司築港、大同電力、朝鮮森林鉄道、大阪北港、大同肥料、天津信託、朝鮮電気興業、阪神国道電軌、奈良電気鉄道各取締役[6][12]、大阪電灯、大阪城東土地[5]、日本郵船、中央毛糸紡績各監査役[6]等をつとめた[11]。 しかし世界恐慌の煽りで関係企業が経営不振に瀕すると、その乱脈振りが追及されることになる。大株の取引所法違反事件に連座した[2]のを始め、1933年には売塩事件・翌1934年には愛国貯金銀行破産に伴う行金200万円背任横領嫌疑で各々刑事訴追された[8]。1937年4月に愛国貯金銀行事件で懲役5年の判決を受けて[8]、控訴審を争う最中に病没。 人物人柄世間の人は島を「機敏な男、智略縦横の才子」[10]、「策士」[9]と見做していた。島は大阪有数の資産家として知られていた[13]。島の財産は全く当一代に作り上げたもので親譲りではなかった[10]。父親の財産は当てにしなかった[10]。しかしその財産は減少の一途を辿っていった[8]。1934年には自らの所蔵品を大阪美術倶楽部で競売した[8]。住所は大阪市東区高麗橋5丁目[6][14]、同市西区江戸堀北通[8]。 評価島の徳望は薄く、酷評する者は「ヨコ島」などとさえ呼んでいた[10]。島の巷間に於ける評判は毀誉相半ばしていた[10]。 栄典家族・親族
島家はもともと大和国の出身で、大阪島家の初代は1792年に亡くなった島利右衛門である[8]。父・徳治郎は中年までは堂島で米の仲買を営み、一時兵庫の米穀仲買人に転じた[8]。磯野小右衛門の勧めで株式の世界へ進出した[8]。1893年、大株仲買人組合委員に当選[8]。株式市場で成功した[8]。1916年2月に死去[8]。電信柱にまでお辞儀をして「お辞儀の徳さん」「仏の徳さん」といわれた[11]。
脚注
参考文献
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