山本省三 (陸軍軍人)
山本 省三(やまもと しょうぞう、1893年(明治26年)3月11日[1] - 1949年(昭和24年)7月8日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 経歴1893年(明治26年)に滋賀県で生まれた[1]。陸軍経理学校第9期を1915年(大正4年)に[2][3]、陸軍経理学校高等科を1924年(大正13年)に卒業した[3]。1939年(昭和14年)3月に陸軍糧秣本廠廠員に就任し[4]、1940年(昭和15年)8月に陸軍主計大佐に進級した[4]。1946年(昭和16年)3月に第11軍野戦貨物廠長に就任し[4]、日中戦争に出動[1]。1942年(昭和17年)8月に第15師団経理部長(第13軍)に転じ[5][6]、1943年(昭和18年)6月に第25軍経理部長(南方軍)に就任し[1]、スマトラ島に出征[6]。1945年(昭和20年)6月10日に陸軍主計少将に進級した[4]。 終戦後戦犯として逮捕され[7]、オランダによってメダン裁判で裁かれた[7]。スマトラ島内の捕虜収容所で連合国軍捕虜に過酷な労働を強いて[7]、劣悪な環境で死者を多数出したことから[7]、求刑は無期であったが銃殺刑となった[8]。山本を担当した裁判長は日本軍に捕虜として収容されていたため[8]、復讐の意味があったとされる[8]。 1949年(昭和24年)7月8日に執行された[8]。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けている[9]。 脚注参考文献
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